EDMUND BURKE(エドマンド・バーク)の系譜 真正自由主義(伝統主義、真正保守主義) |
● 保守主義とは、高貴な自由と美しき倫理の満ちる社会(国家)を目的として自国の歴史・伝統・慣習を保守する精神である。
● 保守主義は、自由と道徳を圧搾し尽くす、全体主義(社会主義・共産主義)イデオロギーを排撃し殲滅せんとする、戦闘的なイデオロギーである。いざ戦時とならば、「剣を抜く哲学」である。
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3.フランス革命の真実───人類の負の遺産
内容項目 |
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カール・ヤスパース曰く、
「フランス革命は、・・・・近代的自由の源泉ではない。むしろ近代的自由は、イギリス、アメリカ、オランダおよびスイスにおいて、連綿と伝えられた真正の自由にその基盤をもつものである。・・・・フランス革命は、・・・・近代的非信仰の表現であり、起源なのである」
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フランス革命が人類と文明の発展に貢献したものは何もない。
そればかりか、人類は、フランス革命の遺したさまざまな後遺症(害毒)に、その後二百年にわたって苛まれることになった。
二十世紀には暗黒の全体主義の諸国家が簇生したが、その元凶はすべてフランス革命に萌芽したものである。フランス革命こそは文明を野蛮へと逆行・退行させるイデオロギーの起源であり、人間の自由を破壊する政治システムの起源であった。「全体主義デモクラシーの起源」(J・タルモン)であった。そして今日もフランス革命の害毒の菌は完全には除染されてはおらず、マルクス主義とともにそれと結合しつつ、残存して繁栄のための次の機会を狙っている。
フランス革命に関する神話は、自己美化(ナルシズム)にしか能力のない民族たるフランスそれ自体と、社会主義思想の発祥となったそのことを神聖視するマルクス主義(社会主義者)とによって、人為的な宣伝が繰り返されたその結果であって、そこには真実はゼロほどに何もない。スローガン
「自由、平等、博愛」のヴェールの下の革命フランスの実像は、「プロレタリアートの天国」であるはずの共産主義国家の実際が「(人民の牢獄)プロレタリアート地獄」であったように、「不自由、不平等、憎悪」の巷であった。1789年から94年の約六年間だけでも概ね約五十万人が不毛の権力闘争と狂信からのテロリズムの犠牲となった。この内訳は、処刑(ギロチン)や牢獄での私刑などで数万人、ヴァンデ地方の「反乱」への報復四十万人以上などである。その地獄絵さながらの阿鼻の構図には、化粧と仮面の下のフランス革命の本当の醜悪な顔が垣間見られる。
フランス革命は、人類史上最も残忍な権力を誕生させた。狂える“残酷な暴政”をうんだ。暴動、放火、略奪、虐殺、暗殺、処刑、密告、没収、陰謀・・・・など、あらん限りの狂気の暴政が、同一国家かつ同一民族内で生じたのである。国家権力の簒奪に成功した革命家の煽動と恐怖(テロル、殺人)下においてなされた暴政であった。
フランス革命の真の目的は何であったかのか。
それは単に「旧体制(君主制)」を「新体制(共和制)」にする政治的変革の革命であったのではない。政治的な救世主思想(メシアニズム)を狂信する革命家たちによる政教一致の新しい宗教国家の創造、それが真の目的であったろう。新・宗教国家の創造とこの創造のための政治の大改造、これがフランス革命であるとすれば、革命期のフランスを覆って暴発し狂乱する暴力の際限ない行使の実態が初めて説明できるからである。
政教一致の新・宗教国家を創造するためには、それは新しい政治体制と新しい宗教の合体によって創られるのであるから、まずもって、既存の政治体制を破壊すること、および既存の宗教(主としてキリスト教)を破壊することの双方が不可欠である。だから、前者は王制廃止となり、後者はキリスト教潰しとなった。
とくに、政治分野である君主制の共和制への変革だけが目的であれば、宗教分野であるキリスト教の信仰や教会制度の存在はなんら障害となりえない点に留意すべきであろう。このことは、あくまでもキリスト教を尊重しキリスト教を大切にしたアメリカ独立戦争・建国の例を思い起こせば自明すぎることである。
「人民主権」という概念は、この政教一致の新・宗教国家の熱烈な信者よりなる国家を「人民主権の国家」とする宗教的な意味の言葉であった。政治上の概念ではなかった。
聖職者を下級「国家公務員」に格下げしてその権威を全くなくしてしまうための聖職者民事基本法(1790年7月)や教会財産を没収する教会財産国有化法(1789年11月)の実施は、王制廃止論などがまだ萌芽の段階において開始されている。“キリスト教潰し”は、1792年夏の国王廃位や1793年1月の国王処刑よりも二年以上先行していた。
このように教会の破壊と聖職者の権威の剥奪などを目的として、教会財産の没収と聖職者の追放・処刑および祭礼潰しは、計画的に実行されていた。フランス革命の目標の第一が(カトリックで何であれ)既成宗教を徹底して破壊すること、そのことにあった。たまたまカトリックが強力であったが故に“カトリック潰し”の状況となったが、革命は最終的にはすべての既成宗教の廃絶を狙っていた。
なお、この「教会」破壊のドグマを理論構築した「啓蒙哲学」は、その急先鋒の一人であるヴォルテールらによるものであった。これは、「啓蒙哲学」がはたして哲学であったのか、それよりむしろ宗教革命の運動ではなかったか、を示唆するものであろう。しかも、詳細に見れば、フランス革命の宗教的教義(ドグマ)は、ヴォルテールらの無神論が主流ではなかった。
無神論は、キリスト教潰しの弾丸とはなるが、その反宗教ドグマにおいて、新宗教の創造には逆効果(人民が無神論になれば新宗教自体が成立しないから)になる。「ルソー主義」の方がフランス革命全体を通して支配的であったし、革命はこれへの「信仰」をもって展開している。革命家のほとんどすべては、その狂信の度合いに差があっても、シェイエス、ロベスピエール、サン=ジュスト、バブーフなどみな「ルソー教徒」であった。そしてルソーの哲学とは先に述べたように一般通念上の哲学ではなく、本質において宗教の教義であった。
フランス革命のキリスト教潰し(非キリスト教化)は、無神論者と擬似宗教国家づくりを目指すものの二つのグループの暫定連合によって遂行された。政治的な救世主主義に立つ擬似宗教国家とはあくまでも宗教国家であるから、後者のグループ(派)にとって前者の無神論の方は最終的には有害でありその存在を許すことはできない。これが、ロベスピエール(ジャコバン党の指導者)が非キリスト教化の行き過ぎ(無神論の暴徒)を批判し(1793年11月)、また、「無神論」に立脚する革命家を「用済み」として次々に処刑していった理由であった。
ロベスピエールは、1794年5月7日、「ルソー教徒」としてついに自らの信仰の告白に至る。国民公会における「宗教と道徳に関する演説」であった。新しい政教一致の国家の宗教として、「最高存在」と「自然」とを神として崇拝する、(ルソーの提唱するままの)市民宗教を提案したのである。
また、「最高存在の礼拝は人間の義務の履行」だとも宣言して、その信仰を強制すると布告した。単純化して言えば「ルソー教」の創設と布教(信仰強制)の公然たる宣言であった。全フランス人民に対して「ルソー教」への改宗と信仰を命じ、この信仰を拒否するものへ恐怖(ギロチンの処刑)をもって罰することの宣言であった。
そして、現在エッフェル塔の建っているその地点で、1794年6月8日、国民公会議長にも選出されたロベスピエールは、政治的な独裁者であると同時にフランスの新・宗教団体の「大司祭」として、この「最高存在と自然」という「神」を祀る祭典を挙行したのである。これこそはロベスピエール個人にとっては栄光の絶頂であったが、宗教革命の運動であるフランス革命が大怪獣のごときその本姿をついに現わして、勝利の大吼をなした時でもあった。
それ故に、翌月の「テルミドールの反動*」をもってロベスピエールがギロチンで処刑された1794年7月28日、フランス革命という名のフランスの宗教革命運動も終息に向かったのであった。半年後の1795年2月21日、国民公会は信教と祭祀の自由を認める法令を布告した。
*テルミドールとはフランス革命歴の熱月(第11月)のことで、1794年7月28日は(テルミドール9日)に当たる。
「テルミドール反動」とはロベスピエール派が反対派のクーデターで壊滅し、以後主導権を得たブルジョア党が反革命的社会秩序の形成を図ったことを言う。
話は戻るが、ヴァンテ地方やリヨン/マルセイユその他での「フランス共和国」の名においてなされた数十万人に及ぶ蛮虐極めた殺戮は、ゾロアスター教徒に対するイスラム教徒のそれに等しく、異教徒狩りそのものであった。邪教徒に悪魔払いするのに似た、神の意思に沿う「聖なる行為」という意識なしには不可能な残忍非道な殺戮のやり方であった。「非宗教から発生した宗教は狂気を極める」(ウィトゲンシュタイン)、というがそのとおりであった。
大砲での処刑、船倉に閉じ込めたままの溺死刑、子供を馬で蹴り殺す刑、家々を焼き尽くす、・・・・フランス人のフランス人に対するあらん限りのその残忍非道、この事実は、少なくとも、フランス革命をもって旧体制の新体制への政治的変革であったとする通俗的理解がいかに実態とかけ離れた虚偽を弄ぶものかを浮き彫りにしてくれている。
また、宗教的興奮のもとでの殺戮を可能としたことにおいて、この「共和国」とは、一般通念上の“共和国”とは異質にして異次元の価値を持っていたことを示すものであろう。つまり、政治制度上の“共和国”ではなく宗教国家としての「共和国」であった。
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フランス革命の政治的側面における“革命”の特性として、
A)
自らの国家そのものを「征服」する形態となったこと
B)
超中央集権化が進んだこと
C)
歴史の切断と過去の抹殺が人為的に行われたこと
の三つを挙げることができよう。
● A)及びC)について
この革命が単に王制・貴族制の「旧体制(アンシャン・レジーム)」を打倒して民衆参加(=デモクラシー)の共和政体への移行、これだけを目的としていたならば、この三つのいずれも不要であった。だが、革命の目標の一つが新しい宗教国家を創造するための、その前提条件としての“国家改造”であるとすれば、この三つの特性はいずれも合理性がある。
フランス革命における王制から共和制への移行とは、この故に、権力の移譲とか政体の変更というやり方にならなかった。王制(旧体制)という旧い国家Aが、共和制という「新体制」の新しい国家Bに「征服」されるという形をとったのである。「征服」によって過去を歴史伝統とともにゼロに清算して、新しい国家の誕生を新生させる道を選択したのである。国体(国家)が連続したままでの、政体の変更や権力の移譲などの道を拒絶したのである。国家の切断(不連続)を積極的に“是”とした、いやむしろ、そのような過程こそが必要だとした異常なる革命であった。
つまり、フランス革命が「正義」のB国(新権力)が不正義のA国(旧権力)を「聖戦」によって「征服(垂直侵略)」してこれを滅ぼすという形をとったのは、フランス人すべてに対してその意識において国家Aと国家Bとが不連続で切断された、という認識を持たせなくてはならないと考えたからである。この不連続なしには新生B国の理想国家が生まれないとする信条に基づいたからである。この信条こそ、新しい宗教国家づくりのための宗教的情念であった。
1792年8月10日の国王ルイ十六世に対する武力攻撃とその警護兵の皆殺し(「フランス革命第二幕」の開始)、牢獄(タンプル塔)への国王幽閉(1792年8月13日)、王党派への大虐殺(1792年9月2日)、そして元女官長ランバル公爵夫人をバラバラに切断してその首を槍の先に刺してタンプル塔での王妃への示威、国王の処刑(1793年1月21日)などの残虐極まる蛮行と暴力は、共和制の建国であればまったく不要で無用なものであったが、これらすべてが革命家たちの周到な計画と煽動によってなされたことは、彼らが目指す新・宗教国家づくりにとっては、「征服」と「聖戦」の形をとるための血塗られた儀式が不可欠であったからである。
つまり、“国王殺し(処刑)”は革命の過程で偶発的に生じたものではなく、革命側にとっては、これ無しで済ますことのできない宗教的な供犠の儀礼であった。
国王処刑は、王制とか共和制とかの一般通念上の政治制度の選択のためになされたのではない。この時のロベスピエールやサン=ジュストの演説(国民公会)で示されるごとく、フランス革命がつくる新しい宗教国家である「共和国」や「祖国」のその聖なる門出に捧げられるべき、またそれに宗教性・神秘性をさらに附与するための生贄であった。
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「共和国が生きんためには国王は死ななければならない」(サン=ジュスト)
「祖国のためにはルイは死ななければならない」(ロベスピエール)
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要するに革命家たちは「共和国」や「祖国」が王の血を欲しているから、王の血を流せと叫んだのである。王制とか共和制とか政治の次元の問題などひとかけらも言及してはいない。
さて、同じ国家であるのにその国家の中で、(現在の)国家Aを「征服」しない限り全く別の(未来の)国家Bは新生しない、と考える神話的・迷信的な仮構のロジックはこの国家が“あるべきではない民族”がそれと血の異なる“あるべき民族”を支配している支・被支配の植民地のような国家の場合には成り立ちうる。この場合のみは、“あるべき民族”が“あるべきでない民族”の方を「征服」し追放すれば、それが新しく「正義」の国家誕生となるからである。
実際に、フランス革命もそのような仮構のロジックを作為して宣伝した。例えば、『第三身分(階級)とは何か』の著者で1789年革命の戦端を切らせるその煽動において最大の功労者であるシェイエスも、そんな詭弁を展開した一人であった。
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シェイエスは言う、フランスの「国民」(=「第三階級、第三身分」)とは文明のゴール人とローマ人の末裔であるのに、一千年以上も前に野蛮なゲルマン人のフランク人に侵略され征服された。王侯貴族とはこの侵略の民たる蛮族フランク人の末裔であるから、
「第三階級は、・・・・征服者たる人種の末裔だとか、その権利を継承しているとかいう馬鹿げた主張をするような家族どもを十把一からげにして、フランコニー森(フランク族の故郷)に追い払ってしまうべきである」と。
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シェイエスはさらに続ける、
「(このときに)初めて国民は清められて、自分たちがもうゴール人やローマ人の(貴い)子孫からしか成り立っていないと・・・・かえって心が慰められる」のであり、また、
「今度は第三階級が征服者となって、貴族の身分に立ち戻るべきである」と。
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シェイエス的な理論は、「他民族に征服され束縛され圧迫されているのだから、“自由”のためには征服者を逆に征服・追放しなければならない!!」という情念へと民衆を暴発せしめるアピール力抜群であった。新・宗教国家の建国運動に誘導するには最も効果的な麻薬となった。
1789年7月14日のバスチーユ牢獄襲撃からまだ、三か月ほどの間もない、1789年の10月6日に、脅迫下の拉致というべき国王一家(王室)をヴェルサイユからパリまで連行したあの蛮行も、ジャングルで捕えた野獣の見せ物興行と等しいやり方であったが、これも「征服」という狂気の感情なしには不可能であったろう。
このように、フランス革命の本質の一つは「征服」である。そう考えない限り平凡な言葉にすぎない「祖国」「愛国的」「国民」「市民」などが、なぜ激越な煽動性をもつ革命用語となりうるかの説明はつかない。
一国内での政治的改革や改良であれば、それがいかに大規模で劇的なものであろうとも、同一の国、同一の国民、同一の市民に対して、「祖国」とか「国民」とかの言葉によって、改革支持派と改革反対派とが峻別され血塗られた対決へとエスカレートしていくことはない。
改革支持派だけは「祖国」と聞いて体中が熱くなり暴力をふるいたくなる、人を殺したくなる、などということは起こり得ない。
ところが、「旧国家」が宗教的な革命によって「征服」されて「新国家」に再生するとなれば、革命支持派にとってはこの「新国家」は「祖国」である。革命支持派のみがこの新しい「祖国」の真の「国民」であり、正しき「市民」である。だから、フランス革命家が多用したスローガン「祖国」がこの言葉を発しただけで、「新国家」をつくれ、「旧国家」を征服せよ、と同じ意味の煽動用語となり得たのである。
日本の明治維新が鳥羽伏見の戦いや、会津城攻撃などあれほど激しい軍事衝突(内戦)と血の犠牲を出しながら、しかしフランス革命の「革命」と全く異質なのは「征服」的な形態が全く存在しないからである。
日本の明治維新とは、江戸時代からもそれ以前からも国家元首の天皇が連綿として存在されて連続している以上当り前なのだが、一国における国体(国家)を“連続”させつつこの国体の枠内での政体(政権)だけの交替───形式的には幕藩体制から「王政」の復古、実際的には薩摩・長州藩連合への交替───をしたものだった。
しかも薩長の維新側が、この“連続”をより確実にするために、天皇を奉戴して京都から江戸に遷都までしたし、幕府の中堅官僚をそのままに残置させ採用するなど、さまざまな工夫と努力をしたのである。フランス革命が革命側の拠点パリに、旧政権側(ヴェルサイユ)を「強制連行」したのとは全く逆であった。
アメリカ「革命」は、この日本の明治維新に類似しており、やはりフランス革命とは本質を異にしている。
フランス革命の国内での「征服(垂直侵略)」がほぼ鎮静化したに見えた、ちょうどそれを境にしてフランスは「対外征服(水平侵略)」を展開する。ナポレオンの指揮の下に大規模に遂行されたヨーロッパ制覇とはそれである。「国内征服」の垂直のエネルギーが「対外征服」という水平のエネルギーへと方向転換されたのである。
同様に1917年のロシア革命も、約二十年に及ぶ「国内征服(垂直征服)」がほぼ完了した1930年代より「対外征服(水平侵略)」へと転じている。その最初が共産ロシアの(ソ連)のフィンランド征服(1939年11月)であった。当初「一国社会主義」であった、スターリンのトロッキー化であり、「武力による共産主義の輸出」路線への転換であった。フランス革命とロシア革命とは一卵性双生児のごとく何から何まで極度に極似している。
● B)について
フランス革命のもう一つの重要な特性は極端な中央集権の政治体制への改造であったことだろう。スローガン「一にして不可分の共和国」は何もジャコバン党の専売ではなかった。この特性はフランス革命の本質をえぐる「キー・ワード」の一つである。
トックヴィルはフランス革命を回顧して次のように指摘している
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トックヴィル曰く、
「・・・・或る民族が自らのうちで貴族制を打破した時には、その民族はおのずからそうなるかのように中央集権化に向かってすすんでいくものである。・・・・中央集権化は、この(フランス)革命の業績の一つとして容易に誤解されうるほど自然に、革命によって形成された(新しい)社会の中に、その地位をみつけたのであった」
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王(君主)制の破壊は、革命家たちがこの中央集権国家が不可欠だと信じるのであれば、不可避的に達成すべきものとならざるをえない。
なぜなら、王制は時間的・歴史的な経過とともに権力の分散をもたらすからであり、王制こそは分権の慣性力を無限にもつからである。中央集権を企図するなら王制ほどの障害はない。
王制とは、歴史の年輪を経たその時々の政治的妥協、試行錯誤、王の気まぐれなどの集積の上に乗っかっている政治制度である。例えば、さまざまな特権を地方(町や村)や組合や特定の家系に不平等ではあったが、網の交錯する如くに与えた。このため、王は、そのさらなる代償として、これらを附与した臣下(貴族)や地方の特権、慣習・慣例、古文書などに逆に拘束されるコストを払うはめになった。
すなわち、君主(王)の権力とは、歴史(時間)がたつに従って制限が加わっていく。地方や各層・各団体にその権力が分散されてしまう。「中間組織」への分権である。
君主制とは、その本質において「絶対王政」というイメージとは逆に現実には、権力の弱体化と権力の喪失の歴史をたどる。
このことは、一千数百年もの間、国家の元首であり続けている日本の天皇の権限の著しい縮小と衰退の歴史を振り返れば容易にわかることである。奈良時代から平安時代、平安時代から鎌倉時代、鎌倉時代から室町時代、・・・・と天皇の歴史とは天皇の政治権力の弱体化・喪失の歴史であった。このような天皇の分権的体質は、王と貴族が政治権力を占有するヨーロッパ封建体制においても全く同様であった。ブルボン朝のルイ王家が消失したことも、王権は分権化され弱体化されていくという、この原則の存在を実証していよう。
要するに、王制という政体は、それが「絶対王政」と呼ばれようと、コンスティチューション(憲法、国体)の制限を受ける「立憲君主制(王制)」であろうと、過剰な分権化の過程をたどる。このために、時間が経つにつれて、絶対的な権力となることは万が一にもない。「専制的な王制」は時にはありえるが「絶対的な王制」は存在しえない。「絶対王政」という概念それ自体、形容矛盾であって存在しえない。
現に、王制の時代には、フランスの司法権は王権より事実上独立していて、高等法院(最高裁判所)は王に対していつも傲然として卑屈になったことはなかった。フランス革命のそもそもの発端は、課税をめぐって、この高等法院や「進歩的」貴族が国王に抵抗したことによって火がつけられたのであった(1787〜1788年)。それほど王制の王権とは制限され権力は広く分散される分権状態であった。王制とは時間(歴史)が経てば経つだけ、「専制的な王制」すら、不可能にする政体である。(これが王制の実態であり、真実である。日本の歴史教科書は「絶対王政」などという虚偽を教えている)
中央集権化のレベル(高低)は、国民一人一人に対する中央の国家権力の直接的な支配のレベルが評価基準の根本であるとするならば、フランス革命とは「分権的な王国を超集権的な共和国に改造した」ことになる。なぜなら、王権や貴族権は国家(政府)の権力直接的に個々の国民に力を及ぼすことを阻む、いわば「中間組織」の役割を果たしていたが、新・宗教の信仰を強制するという聖なる使命を果たしたい熱情に駆られた狂信状態のフランス革命家たちは、国家権力が個々の国民に直接的に到達する、直接支配の政治機構を欲したのである。
だから、長い王制に育まれた伝統と慣習に裏付けられ強い自治権を持つ州や、あるいは同業組合などがフランス革命において、破壊と絶滅の対象となった。州は廃止され、新しい地方行政機構は、県→郡→小郡→郷→自治体の軍隊式に組織された。そして、パリの中央政府が、県知事を派遣してこれらに対する絶対的な支配権を行使することができるようになった。
人間も社会も、過去をひきずり過去を背負って存在しうる。また、いずれも根源的には過去の産物であり過去から生成されたものであるから、それらを過去と切断し分離することは決してできない。
歴史において生成されたものは、歴史なしにはその生命は息づくことはできない。
しかし、歴史伝統を憎悪し過去のすべてを破壊し現在とぷっつりと切断されたとき理想の未来が到来するのだと信仰し、また理想の未来をつくるために過去の破壊が不可欠だと狂信するフランス革命家たちは、人間と社会とを、過去から切断することを決断し実行した。その結果、法秩序が崩壊し、自由がフランスから消えたのである。
歴史からの切断→法秩序の崩壊→自由の喪失、という文明の政治社会について、フランス革命家は知っていて実行したのだろうか。それとも知らずして実行したのだろうか。彼らがルソー教徒であったのであれば、当然答えは前者である。
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フランス革命とは、宗教革命運動を「主」、政治革命運動を「従」とする複合革命であった。
前者は、独裁者ロベスピエールの処刑をもって挫折した。かくして、革命の熱狂の源泉であり牽引力の源泉であった、あの「啓蒙哲学」という母体から生まれた擬似宗教でもある「理性教」は、革命期には「愛国者」「国民」「市民」「人民」「有徳者」などと称されたその狂信状態の“信者”の多くを、バブルの崩壊のごとくに急速に失っていった。
「自由」「平等」「共和国」「祖国」「自然」などの、この「理性教」の「神々」もその半ばはいつしか姿を消していた。
具体的に言えば、上記のうち「自由」「共和国」「祖国」「自然」の言葉から宗教性が忽然となくなり、それは「神」でなく普通の言葉に戻っていた。だが、「理性教」は消えなかった。
「理性教」は昆虫が脱皮するごとくに変身して悪性のウィルスのように生き続けたのである。変身した「第二の理性教」、それが「社会主義思想」である。
すなわち、「平等」と「人民」という「神」だけは、フランス革命期のままに、秘めやかに崇拝され続け、これが「社会主義教」の「神」となった。
「社会主義教」とは、雑多な「神々」からなる「理性教」より生まれたが、これをより純粋化したものであった。なお、この頃より「デモクラシー」なる用語が、にわかに宗教性を帯びてきて、この「平等」と「人民」の、二つの「神」の戦列に、新たに加わったようである。
本質において宗教である社会主義思想は、毎日のように「ルソーよ、ルソーよ」と念仏を唱えるほどに「ルソー教」を狂信的に信仰するバブーフの行動によって、後代において絶大な力と影響をもつ世界的宗教へと発展していくのである。
「社会主義教」の開祖フランソワ・ノエル・バブーフ(1760〜97年)とは、「五人の子供を産まれると同時にすべて捨てたルソー」に似て「三人の実子を餓死させても」なお自分の信じる革命のための宣伝扇動活動をやめない、フランス革命が生んだ数々の狂人の一人であった。
「ルソー教」の信徒としては先輩であり、その「殉教者」でもあるロベスピエールとサン=ジュストの「遺業」の後継者たらんと欲して、「貧困の平等」「私有財産の否定」「労働の強制」などをもって完全社会だと夢想し、いわゆる「社会主義」の絶対的な政治権力を樹立するために武装蜂起〈反乱〉せんとした。そして、事前に発覚して処刑された。
この「処刑」のために、逆にバブーフはイエス・キリスト的な「聖者」となった。ここにバブーフ主義の信仰が生まれたのである。バブーフの高弟(使徒)ブォナロッティの才と熱烈な布教によって、このバブーフ主義は次第に信者の勢力を大きくしていった。
マルクスとエンゲルスが執筆した『共産党宣言』はこのバブーフ主義の継承であり、バブーフ主義はレーニンとトロッキーの共産主義理論やその革命戦略へと直線的につながっていった。ラスキも、「レーニンは大文字で書かれたバブーフ主義である」としている。
「平等」を神格化した宗教革命運動であり、また「理性」への信仰が支配する国家への改造運動が1789〜94年の五年間のフランス革命であった。一方、バブーフ主義つまり社会主義とは貧者(プロレタリアート)階級を救済するのではなく、この貧困階級こそが政治的な支配者となる階級独裁の国家への改造という別の宗教的ドグマ(教理・教義)であった。
「社会主義教」である。バブーフ主義にしろマルクス主義にしろ、富者の絶滅や貧者の独裁とは、富者と貧者の「平等」を不可とする、貧者側の絶対性という「不平等」の論理である。
“不平等”な封建体制を打破する「平等主義」思想が、五年間のフランス革命の騒乱を経て“不平等な”独裁の社会を理想とする「不平等(階級)主義」の思想へ転換したことになる。だが、「社会主義教」における「平等主義」のドグマと「不平等主義」のドグマは、いずれも同時にルソーが『社会契約論』等の同一の著作において展開したものであって、矛盾するものではない。
なぜなら、ルソーは、ヴォルテールから「乞食の哲学」と揶揄されたように、全ての人間を(野獣に等しい)無産の貧者とする「平等」をもって平等社会の理想を描いたのであって、それはまた富者を絶対に許さない不平等の教理でもあり、ルソーはすべての人間の“平等”など論じたことは決してなかった。「階級主義(不平等主義)」とは「平等主義」の極端な形態であり「平等主義」の変種であって、その一つである。
この「貧困の平等」のイデオロギー(社会主義教)としては、ルソー⇒(ロベスピエール)⇒バブーフ⇒ブォナロッティ⇒マルクス/エンゲルス⇒レーニン/トロッキー⇒スターリンと流れる系譜は、単線的であり直系である。階級独裁の「平等主義」がこの神学の根本規範である。
このことは、私有財産へのこだわりと「理性教」に留まったロベスピエールとサン=ジュストは、「ルソー教」の信徒でありながら、ルソー以外の十八世紀フランス「啓蒙哲学」の影響をぬぐいきれなかった、と言えるだろう。
ただ、ロベスピエールらが、この狂気の「平等主義」の宗教の信徒がいかに少数でも、国家権力を掌握しその政治体制を構築するのは可能であることを(失敗の教訓も含めて)実践したことは、この後の「社会主義教」の信徒の宗教・政治活動を鼓舞するものとなった。
@暴力による権力掌握、A「恐怖」による国家運営、B峻厳苛烈な独裁、C議会の否定、D宣伝(マスメディア)の独占、E教育の独占・・・・の「人民民主主義の独裁政治」については、レーニンではなく、遡ることそれより百二十年前、バブーフらが、ロベスピエールらを研究することによって既に理論化していたのである。
無差別の逮捕・拷問と処刑、強制労働を課すチェーカー(秘密警察)による国家テロル、・・・・のレーニンのつくったソヴィエトの政治体制とは、ルソーの『社会契約論』に淵源を発するこの「ロベスピエール/バブーフ体制」にほかならない。
なお、「理性教」と「社会主義教」との相違は「青は藍より出でて藍より青し」(荀子)と同じく、後者は前者から生まれたがより純化し、より先鋭化したものである。
「理性教」とは人間の「理性は」ついに宇宙万物の哲理・真理(「自然」)を発見したと考える十八世紀「啓蒙哲学」を神学とするものである。そしてこの「啓蒙哲学」の主要な概念を神聖化して、その総体を「最高存在」と言い、これを祀り崇拝する教義である。簡単に言えば、人間の「理性」が人間の「幸福」を確実にすると信仰する教義である。だから、しばしば革命時にその騒擾の広場などで朗読されたように、ルソーの『社会契約論』は、キリスト教の聖書と同一レベルのものとされた。つまり経典であった。
「社会主義教」とは、「理性教」の「神」の数をかなり整理して、つまり「平等」と「人民」にほぼ限定して、またヴォルテールやディドロやコンドルセその他数多くの「啓蒙哲学」は原則として排除して「ルソー」だけを突出させたものである。
しかもロベスピエールらによる「理性教」による国家樹立(とその失敗)の過程で、国家権力の握り方と社会主義(共産主義)国家づくりのノウハウを身に付けた、厄介な害毒の教義であった。
十九世紀のマルクス主義、あるいは二十世紀のマルクス・レーニン主義の、その起源もしくは始祖はルソーとロベスピエールであると言いきってよいことになる。とすれば、「マルクス/レーニン主義」とは「ルソー/ロベスピエール主義」の別名だということになる。
ところで、「啓蒙哲学」は政治社会の漸進的発展や改良に対する憎悪をこめて、反対し否定する。漸進と中庸の排除を絶対的な信条とする。十八世紀のフランス「啓蒙哲学」には、至福千年の地上の楽園を現世でかつ直ちに実現できるとする信仰が背景にある。未来は征服できると考えている。
それはまさしく宗教(信仰)であって、哲学でも政治学でもありえない。やはり、フランス「啓蒙哲学」とは、哲学と近代という二つの衣をまとったメシアニズムの宗教であった。
さてロベスピエールらのフランス革命がその後の社会主義の猖獗にとって源流となった原因にはもう一つある。
フランス革命が、実際に社会主義経済の、いわば実験をなしたからであった。
食料品の最高価格の設定(1792年11月)
穀物・小麦粉の特別最高価格令(1793年5月)
生活必需品の一般最高価格法(1793年9月)
などは自由市場経済から計画経済化への明確な第一歩であった。ならず者を使って計画経済化を強制していくための、また、富裕者に対する暴力的略奪をなすための「革命軍」の創設(1793年9月)も、革命が王制・貴族制潰しから富裕層破壊の段階に既に進展していたことを示すものだろう。
フランス革命とは、政治分野における単なる「旧体制」変革ではなく「貧者の天国」を妄想する狂気の社会主義革命であったのである。
「貧困者への、没収した反革命者の土地無償分配」(ヴァントーズ法、1794年3月、施行せず)も同様に社会主義的な富の配分であるし、富者のいない「平等」社会づくりの熱狂のうんだ社会主義的暴力であった。
それ以上に富裕層に対する憎悪とその破壊が革命の主たる目的の一つとなりつつあったことは、ジャコバン独裁下の社会主義化の急激な進展を示している。例えば革命軍のリヨン市破壊は貧困者の家のみを残すという方針で数千戸の高級住宅が十月末だけでも敢行されている。もしジャコバンの独裁体制があと数年続けば「貧困の平等」の教義がフランス全土に適用されて、レーニンやスターリンによる数千万人規模のあの残忍な「富農(クラーク)」抹殺と同じくフランスから富裕者数百万人が抹殺されていたはずである。
フランス革命をもって「ブルジョア革命」であり真正の革命である「プロレタリアート革命」に至らなかったとする説はマルクス主義に汚染された誤った観察である。
真実を歪曲した嘘である。マルクス主義がルソー主義の盗用であり模倣にすぎない、そのことが露見しないようにするための宣伝である。「プロレタリアート革命」という用語を美化し聖化するための嘘宣伝である。そもそも資産をもったブルジョアが革命などするはずはなく、「ブルジョア革命」という用語自体が形容矛盾である。
フランス革命こそは百二十年前にロシア革命を先取りしたロシア革命そのものであって、この二つの革命は本質において何一つ違いはない。別の表現をすれば、ロシア革命こそは、忠実なコピーのような「第二のフランス革命」であって、そこにはフランス革命と異質である何物も発見することはできない。
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フランス革命(1789〜94年)は、アメリカ「革命」とも呼ばれる独立戦争(1775〜83年)やその建国(1776〜88年)に遅れること数年、これに刺激されてそれを模倣し、かつ凌ごうとした側面が存在するのは事実である。
例えば、米仏同盟(1778年2月)により、前者の独立戦争に参加し自分の長男にジョージ・ワシントンと名前を付けたフランスのラファイエット侯爵はカムフラージュしたフランス革命宣言である「人権宣言」の草案を議会に提出した最初の人であったし(1789年7月11日)、またこのアメリカ建国の興奮から醒めないラファイエットが革命の初期にあって非・国王軍であるパリ国民衛兵隊司令官として英雄的な指導者の一人であった。
だが、フランス革命はアメリカ「革命」とは対極的な方向に走ることとなった。フランス革命は個人の自由の制限もしくは圧搾をもたらし、一方のアメリカ「革命」はその逆に個人の自由の拡大の保障であった。
あるいは前者は「(貧困の)平等」を神聖視しそれに絶対性を附与したが、後者では社会的「平等」は重視されなかったし、むしろかなり積極的に無視された。「平等」は「自由」と対立する概念だからである。逆方向に革命が展開したのである。
フランス革命とアメリカ「革命」の極端な相違の一つを、F・A・ハイエク(ノーベル経済学賞受賞・政治哲学者)は次のように述べている。
――――――――――
ハイエク曰く、
「多くの点で、フランス革命は、アメリカの革命によって鼓舞されたとはいえ、後者の主要な成果──立法の権力に制約を課す憲法──であったものを決して達成しなかった。
――――――――――
ハイエクの指摘するとおりに、アメリカ「革命」では法秩序(「法の支配」)が重視され立憲主義が強く指向されたのに対し、フランス革命では逆に、“法”の無視が革命手段として正当化されて憲法の不在と無法そのものが政治を支配した。暴力革命が凶暴に荒れ狂ったそのままに、法に対する尊敬を崩壊させてしまったのである。国家権力の制限でなく国家権力の肥大化だけが志向されて、国家権力の制限という自由のための制度や法のすべてが放棄された。野蛮への回帰、文明の退行、これらが生じたのがフランス革命であった。
アメリカ「革命」が法と正義への文明的な発展への顕著な一里塚となり、フランス革命がその逆となった最大の原因は、フランス革命は“法による支配”ではなく“人による支配”を是と考え、人民(国民)が主権者なのだから、この人民(国民)に対して国家権力がいかに肥大化しても人民(国民)の権利に対する侵害は生じないという、仮構もしくは“迷信”あるいはルソー的詭弁を信じたことにある。
かくして、フランス革命は、この人民もしくは国民の代表である「国民議会」であれ「国民公会」であれ、これらの立法の議会をもって国家の絶対権力としてしまった。これらの立法議会を拘束する上位の“法”(すなわち憲法)は何もなかった。
立憲君主制の政体を定めた「1791年憲法」(9月3日成立)は、翌年1792年8月10日の「暴動」をきっかけに政治的に息の根を止められ、その憲法の生命は一年足らずであった。
すなわち、この1792年8月10日の王権停止も、1792年9月21日の国民公会の設立も「1791年憲法」に違反し憲法を無視する無法が暴走し、無法が支配者となった結果だった。
そして無法から生まれたこの国民公会は超越的な絶対権力を行使して、王制を廃止し(1792年9月21日)、「共和国宣言」(1792年9月22日)をなしたのである。すべて立憲主義に逆行していた。
だから、この憲法無視の思想・信条に従って、国民公会は1793年に「ジャコバン憲法」を成立せしめたが、その施行はみずから棚上げして“憲法不在”を選択した。ジャコバン党のロベスピエールは憲法にいささかの関心すらなかった。
そればかりか、このジャコバン憲法の起草者である自らの同僚であるエロー・ド・セシェルをロベスピエールはダントンやデムーランとともにギロチンに送り殺害したのである(1794年4月5日)。
フランス革命家たちの憲法無視を具体的にいくつか見て行こう。
まず、1791年のフランス初の憲法つまり「1791年憲法」は国王の職務上のいくつかの問題に対して“退位(廃位)”を定めているが(第二章第一節第五条など)、そのことは(その他の職務上の国王の権限は認めていることであり)国王の処刑など決してできないことの憲法の明文規定でもあった。
ゆえに「犯罪」の立証もない以前に行われた1792年8〜9月の王権停止と王制廃止は明らかな憲法違反であった。
また、第二章第一節第二条に、「王の身体は神聖にして不可侵である」とあることから、裁判にかけることは憲法違反である。
さらに憲法上の最高罰を実態的に強制されてすでに退位したあとに在位中の行為に対して裁判にかけること自体、憲法にもいかなる他の法にも基づかない無法(暴力)以外の何物でもなかった。
フランス革命は、その1789年8月末の人権宣言(人間および市民の権利の宣言)において「人類の進歩」とばかりに評価されている。しかしフランス革命はこの人権宣言に一度として敬意を持ったこともないし尊重したこともなかった。百パーセント無視したのである。
「何人も犯罪に先立って制定公布され、かつ適法に適用された法律によらなければ、処罰されない」(第八条)も、
「何人も法律に規定された場合で・・・・なければ、追訴され、逮捕され、また勾留されない」(第七条)
も、プロパガンダ以上の何物でもなかった。
だから、フランスは1793年9月17日の「反革命容疑者法」などによって無差別逮捕・無差別処刑の流血の巷と化していったのである。
フランス革命とは、立憲主義・法治主義の否定こそ絶対的に正しいものとした。
同時に、権力のチェック・アンド・バランス、つまりモンテスキュー的な三権分立をも否定した。限りなき権力の一点集中である。国民公会という非合法議会が独占的に権力を掌握し、その後はこの国民公会のつくったその一部局にすぎない公安委員会(1793年4月6日設立)にこの独占的権力が移動して独裁政治の体制がより強固になっていく。ここにおいても「権力の分立」に腐心して国家権力の制限と“主権の分散”を不可欠なものとみなした、アメリカ「革命」とは対照的であった。
二十世紀のソ連共産党の独裁体制がこの共産党の政治局と党書記長による独裁であったのと同じく、十八世紀の、最高執行機関として公安委員会による独裁は、国民公会におけるジャコバン党の優勢の確立とほぼ同時に生じている。公安委員会のロベスピエール/サン=ジュスト/クートンの三頭独裁体制は1793年10月10日の「革命政府宣言」に始まり、憲法を含む“法の支配”はここに名実ともに死に至った。
そして、無差別の大量殺戮の恐怖政治へと、フランス革命はますます野蛮なものとなって激越になっていった。独裁体制と法治主義の否定とは、離れられないコインの裏表である。
暴力と無法の信徒であり大量殺戮の煽動家であるデムーランですら、死の直前に「人間がかくも残忍に、かくも不正になるとは、・・・・」(1794年4月4日処刑)と嘆く最悪の政治が、フランス革命が理想だと追求したその結果として創造されたのである。
“法による政治”を否定した“人による政治”は、最終的にはこの最悪の政治に行き着くしかない。
また「大衆」や民衆が根源的に暴虐な性質を持っている事実を転倒させ、この下劣で破壊的な民衆を「人民主権」などとして神聖化したことが、この最悪の政治の最大の元凶であった。
アメリカ「革命」とは、その広大な土地に入植してきた、無法状態におかれた見知らぬ人々から成り立つ国家を創造することであった。だから、その建国に際して法秩序の具現する政治社会の建設こそが最優先となった。また、法秩序と自由とはコインの裏表であるから、母国からの独立という自由への悲願そのものが、法秩序の重視を優先させた。
そればかりか、一瞬の油断も病気も人生の終わりを意味する荒野への入植という厳しい原初的な社会の故に個人の労働と智恵によってつくり出された富や財産(私有)はおのずから「生命に匹敵するもの、もしくはそれ以上の価値」であった。
また「財産(私的所有)が人間の自由にとって不可欠な基盤」という政治社会の原則も体験によって容易に理解できた。このため、財産(私有)の保護が法秩序なしには困難であるが故の、法秩序の重視、という健全な意識をもつくりあげたのである。
また、荒野の厳しさは“自然”と闘うことを日常の生活にしたから「自然」を崇拝するようなルソー的妄想の入る余地をゼロにしていた。アメリカは、フランス「啓蒙哲学」を読んだが、受容しなかった。
労働(勤勉)とそれによる財産(私有)とを絶対視する思想からは「富の平等化」とか「私有を否定する考え方」は万が一にもうまれえない。
アメリカ「革命」が「平等」のイデオロギーを排除したのは当然であろう。
また、王侯貴族が存在しないことも「入植」「移民」という出自において初めから平等であったことも、「平等」への関心を著しく低いものにした。
アメリカ「革命」でなされた「平等」の主張としてはジェファーソン起草の独立宣言の「平等」の狙いがそうであったように、あくまでも「英国の本国人」と(アメリカ大陸の)「英国から来た移民人」間の“平等”だけであった。
しかも、これは後者の独立とともに完全に達成されたから、「平等」はついぞほとんど関心にすらならなかった。フランス革命の方は、一国内における政治的・社会的な「(貧困の)平等」を図るという、それが革命の理念であった。一国内における国民間の憎悪と嫉妬の熾烈な闘争をもたらす「(貧困の)平等」思想であった。アメリカ「革命」とフランス革命とは、「平等」のドグマにおいてこれを“非”とするか「是」とするかの対極的な相違をなしていた。
そもそも英国という本国から米国に入植した、英国の一部である英国人たちの独立は、戦争を伴ったが故にのちのカナダやオーストラリアとは異なって、王(君主)や貴族からの訣別を不可避としてしまった。政体としては共和制のみの選択以外に何らの余地のないものになった。
だから、建国に際しての議論としては、逆に、この新しい共和制にいかにして英国の旧い君主制的要素や貴族制的要素を遺すかという問題の方が真剣かつ深刻に考慮された。これが、1787年に制定された憲法のあの大統領や上院の規定でもあった。
また、王制や貴族制でなく民衆参加制(デモクラシー)で政治的安定化がもたらされるのかと悩み、民衆参加に制限を加えることにした理由でもある。
大統領選挙が、その選挙人団が選出する間接選挙としているのも、デモクラシーにおける民衆に対する制限の思想から考えられたものであった。
また、この大統領選出について、現在では一般有権者の投票で州ごとの「選挙人」を決定する以外の方式をとる州はないが、建国当初は、この財産と教養のある「選挙人」を選ぶために州議会だけで選出する方が多かった。
つまり一般有権者の大統領選出への参加を排除していたのである。さらに上院議員の選出は州議会が行うこととし、一般有権者が参加し投票することを禁止した。英国の貴族院の議員は国民が選べないが、この方法を踏襲したのである。いずれも「英国王=米大統領」「英貴族院=米上院」と英国の君主制をモデルとする制限デモクラシーの原理であり、これは民衆参加(デモクラシー)における「一般大衆」の「政治的無知」に対する警戒感・不信感の基づくものであった。
しかしながら、日本では、愚かにも「独立戦争は、・・・・より広く旧体制一般、君主制を否定し、共和主義の原理を主張し、それを現実の制度として定着せしめるための戦争であった」などと、フランス革命と同一視した、反王制(反君主制)のマルクス主義的なドグマに毒された牽強付会がなされている。
米国は独立に際して、君主国のフランス王国と同盟条約を締結したのであり(1778年2月)、またスペイン王国にも同盟を求めたのである。また、フランスのルイ十六世国王陛下の軍隊の協力なしには、米国の独立を確実なものにした、英軍を敗北せしめたあのヨークタウンでの大勝利はなかった(1781年)。
独立のために便宜的(戦術的)に反・ジョージ三世国王のキャンペーンはしたが、米国は一度として反・君主制のイデオロギーを形成しなかった。むしろ米国は建国以来、英国の君主への強烈な憧憬と敬崇の念を懐き続けた。それは今日においても弱まっていない。
以上のような事柄を踏まえると、アメリカ「革命」とは、海を隔てた遠くの本国政府を自前の政府に置き換える、いわば政府の交替にすぎなかった。日本の明治維新に似ている。
明治維新が慎重な熟慮のもとに国体を変えずその枠組みを維持して政体の変更だけをしたように、米国も、国体も政体も新しく創造しながら、そのいずれも英国をあくまでも模倣し英国の基本的な伝統から逸脱することに小心なほど慎重であった。大胆に新しい国家を創造せんとしたフランス革命とは、似て非なるものであった。
このようにフランス革命と相対的な比較をすると、アメリカ「革命」という「革命」の表現は、不適切であるのがわかる。
アメリカ独立戦争とアメリカ建国はあったが、「革命」はなかった。
そのように考えると、英軍を降伏せしめたヨークタウンの戦いは将軍・徳川慶喜の遁走となった鳥羽伏見の戦いであったし、独立承認のパリ条約(1783年)は勝海舟と西郷隆盛の合意による江戸城無血開城であった、となぞらえることもできよう。
フランス革命とアメリカ独立戦争の決定的な相違はこのほかにも三つある。
A)
キリスト教に対する考え方の相違
B)
連邦主義(アメリカ)と超・中央集権主義(フランス)の相違
C)
建国に際しての民衆参加の是非の考え方の相違
――――――――――
A)について
米国はキリスト教信仰を大切にして尊重した。フランス革命のキリスト教潰し(抹殺)の蛮行などは、アメリカでは断じてしなかった。だから、独立戦争の煽動的パンフレット『コモンセンス』を著したトマス・ペインが、一旦、反キリスト教の『理性の時代』(1794〜95年)を書くや米国全体はこのペインを許さず、徹底的に排斥した。トックヴィルは十九世紀初頭のアメリカにおけるキリスト教について、次のように明快に指摘している。
――――――――――
トックヴィル曰く、
「アメリカは、世界中ではキリスト教が人々の魂の上に真実の力を最もよく及ぼしているところである。今日キリスト教が最大の支配を発揮している国は、同時に最も開花しているし、最も自由であるからである」
――――――――――
B)について
フランス革命は、中央政府(パリ)の権限の強大化・肥大化をもたらし、過激な中央集権化という変革で終わった。そればかりか、米国の建国に際しての理念である「連邦主義」と呼ばれる地方分権的な思想も制度もすべて決して許さなかった。
一方アメリカの建国は連邦制となったこともあいまって分権色の強いものとなり、中央政府の権限はより小さく制限されることとなった。しかも米国の建国における「小さな政府論」は、連邦制の結果のみでなく、根源的には国家権力に対する性悪説に立脚していたからである。この点は「国家が理想の国家に改造されれば、これに没我するすべての人間は必然的に至上の幸福に到達する」と信仰し、超強大なる権力の国家を創ろうとしたフランス革命とちょうど逆転した発想であった。
また、「平等」に対する過度の偏重と信仰は、この平等化を神聖視するが、それは国家権力の強制を持ってするしか実現しない。だから、社会的・政治的な「平等」の追求は、そのための手段として中央集権化を強行的に選択していく。一方、「自由」重視の思想は、政府の権力からの自由を志向するが故に、「小さな政府」を求める。
――――――――――
C)について
アメリカは独立戦争と建国に際して、「大衆(民衆)」やならず者を参画させることを極力避けたことを挙げねばならない。入植者という出自は同じであっても一定以上の資産を持ち「エリート」となった者だけが建国の指導を担ったのである。これらの米国の「エリート」は、民衆参加(デモクラシー)のもたらす弊害と危険性を充分に了知していた。
この民衆排除の「エリート」のみによる建国は、日本の明治維新と同じである。
維新の中枢の主体は下級武士出身の若者とはいえそれでも日本の上位六パーセントを占めるにすぎない武士階級の出身であり、吉田松陰の松下村塾の出身者や薩摩藩などの藩校出身者などで構成された学問的教養においても意識においても真正のエリート集団であった。
フランスの革命家たちは、ジャコバン党のリーダーをはじめ「ならず者」あがりが数多く権力の座に就いた。フランス革命家たちは醜悪で劣等な人格の持ち主が多数を占めていた。
また、バスチーユ牢獄襲撃にしても1792年9月2日の大虐殺にしても、あるいはジロンド派の逮捕でも革命を成功させるため、手段を選ばずに、公然と最下層の民衆を暴力装置として(金銭を渡して)参画させたものであった。暴徒と化す民衆の活用、それは無法と破壊の社会しかつくらない。自由なき社会しか構築できない。
しかし、フランス革命は、これを中核的な手段としたのである。だからフランス革命は、正しく「プロレタリアート(下層民衆)革命」なのである。そればかりか、フランス革命では、「人民主権」(実際は革命の煽動用語で人民主権など皆無であった)などと、この「下層民衆」を逆に神聖視する「人民崇拝教」のドグマが熱狂的に信仰されていた。このような現象はアメリカ建国には一切見られなかった。
以上のことをまとめると、「文明からの退行」と“文明的な発展”との両極に相違する「フランス革命」と“アメリカ独立革命”とを、同じ言葉である「革命」において同一の範疇に括ることは決してなしてはならない、のである。
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フランス革命の研究は、良識派と狂信派に二分される。狂信派は残虐にして野蛮なだけで自由の後退もしくは自由の圧搾をなしたこの革命をもって「フランス革命は、政治・社会・文化における一切の『近代的なもの』の偉大な源泉である。・・・・革命によって積弊と矛盾が一挙に破砕され、社会の躍進が保障された」と、逆さにする。
ところが、事実無根も度が過ぎるこの熱狂的な「信徒」からなる狂信派の方が多数である。このような倒錯的な状況は、二十世紀における社会主義思想やマルクス主義の猛威と密接に関連している。
フランス革命について客観的な歴史学や政治哲学の分析をせず、表面的には学問の形式をとりながら、その実態はフランス革命を「聖化」して、その批判をタブー視化することがフランス革命の研究のほとんどである。
その理由は、フランス革命が近代社会主義思想を誕生せしめたこととその母体であったからで、社会主義思想とは近代のうんだ擬似宗教のドグマであるとすれば、社会主義教の「信者」にとってフランス革命とその発祥の地パリはそれぞれ“聖なる秘蹟”であり、“聖地”である、からである。フランス革命の研究者の多くは、フランス革命に関する「神話」の再生産をなすのを仕事と心得ている。
日本におけるフランス革命の研究者や論者も同様で、フランス革命を客観的に把握することを拒否するそのこと自体、彼らが「宗教的信仰」に立脚していることを示すものだが、その端的な証拠はフランス革命に批判的な海外の多くの著名な研究書や諸文献を紹介することすら自己検閲し、そのようなものがあたかも存在しないかのように一切無視していることでわかる。
フランス革命の研究に関する、(マルクス主義的なドグマに基づかない)邦訳された代表的著作を挙げると次のようにあまりにも少ない。
A)
エドマンド・バークの『フランス革命の省察』(1790年)
B)
トックヴィルの『旧体制とフランス革命』(1856年)
C)
イポリット・テーヌの『近代フランスの起源』(1885年)
D)
D・モルネの『フランス革命の知的起源』(1933年)
E)
J・タルモンの『フランス革命と全体主義デモクラシー』(1951年)
などである。
しかも、我が国の大学教育においてこれらすら紹介されることは皆無に等しい。また、その翻訳は大手出版社により排除されていて、とりわけバークとモルネを除く三人のそれについては、部数もほとんどなく一般に手にすることは困難な状況にある。
ちなみに、狂信派の推奨するフランス革命の専門書は、
イ)
狂信的で過激な「ルソー教徒」であるジュール・ミシュレの『フランス革命史』(1847〜53年)
ロ)
著者自身が革命煽動家のシェイエスになりきって、マルクス史観で書かれた、アルベール・ソブールの『フランス革命─1789〜99』(1948年)
ハ)
アルベール・マチエの『フランス大革命』(1922〜27年)
である。
ミシュレは「聖なる革命よ、あなたはどうしてそんなにくるのが遅かったか!・・・・」と革命を「聖化」し、ルソーを「神格化」し、人民を「絶対神」にすらなぞらえる。一言で言って尋常ではない。
――――――――――
ミシュレは言う、
「ルソーは、・・・・言った。・・・・一般意志、これこそ権利であり、理性である。・・・・それは、あなたたち(=人民)が神なのだ、というに等しい。・・・・神となろう!不可能は可能となり、容易となる。世界を転覆することは、些細なことである。一つの世界を創出するのだ」
――――――――――
パリ大学のフランス革命史講座の教授であったソブールもまた、狂信的な「ルソー教徒」であり、同時にマルクス主義者(フランス共産党員)であって、しかも、「革命は労働の自由を宣言し、一切の個人的イニシアチブを自由に発揮させ、・・・・」とか「(フランス革命の)原理は単に政治的開放だけではなく、人間解放の実現を目指したものだった」などとマルクスの階級闘争の公式ドグマに従った革命讃美以外の視点はまったく皆無であり、冷静な学問(歴史学)とは無縁であった。
――――――――――
ソブールは言う、
「サン=キュロット(=フランス革命の都市民衆)の心理状態は、(このフランス革命時の)農民が資本主義的農業と農業個人主義の進展に直面して、生存を保障する農村共同体と共同体的諸権利を懸命に防衛していた心理状態と基本的にしばしば同じであった。・・・・歴史発展は・・・・弁証法的運動である」
――――――――――
ソブールは、フランス革命は、計画経済(経済統制)と共同体(コミューン)を志向する民衆が、マルクス主義のあの「プロレタリアート」として成長し実権を把握することなく、さまざまな要因で弱体化した結果、一歩手前で共産(プロレタリアート)革命にならず、「ブルジョア革命」で終わったとみなし、このことを嘆いているだけなのである。
同じくパリ大学のフランス革命史講座担当の教授であったマチエも同様で、その主著『フランス大革命』で「ヴァントーズの法律によって建設しようと夢見た金持ちも貧乏人もない平等主義の共和国は、彼ら(ロベスピエールとその一派)と共に死刑に処された」とか「(テルミドール反動は)ロベスピエールを殺したために、今後百年間にわたって民主共和国を殺したのである」と嘆くほどに、残忍な「殺人鬼」にすぎない狂人ロベスピエールを逆に「神」と礼讃する、いわば「ロベスピエール教」の狂った「信徒」の一人であった。
マチエは1908年に「ロベスピエール研究協会」という名の学会まで創設した。
その機関誌が『フランス革命史年報』である。マチエは(ソ連批判もしたが)マルクス主義の公式から一歩も離脱することはなかった。恐怖政治のギロチン(大量殺戮)を「必然」と正当化するマチエの学問は、人間性の全否定をなす狂気の宗教を狂信するものでしかなく、学問ではなかった。
ミシュレはむろん、マチエにしてもソブールにしても、革命そのものが、流血そのものが、そして何よりも、その暴発のエネルギーが「啓蒙哲学」の崇拝であったそのことが、はたまた「民衆」が参加したことが、感激なのである。これがフランス革命の神話に陶酔する「信徒」たちの内面であって、ドグマへの狂気それ以外の何物でもない。
彼らは、政治とは結果において評価すべきもの、という基本すらわきまえることもない。一片の冷静さにも欠如する。学者という立場のその実、布教宣伝活動に精を出す煽動家にすぎなかった。
最後に、日本では一切無視されている、ブルクハルトやオルテガあるいはアクトン卿など“世界的な哲学者”のフランス革命批判について、紹介しておく。
ルソーやヴォルテールらを「デマゴーグ」とするオルテガの彼らに対する痛罵は辛辣である。
――――――――――
オルテガ曰く、
「デマゴーグのデマゴギーの本質は彼の精神のなかにある。つまり自分が操る思想に対するその無責任な態度にある・・・・、その思想とて彼自身の創造になるものでなく、真の創造者からの受け売りなのである。デマゴギーは知的退廃の一つの型」
――――――――――
ブルクハルト曰く、
「(ルソーのように)国家の建設に対して契約説を説くことは荒唐無稽である」
「国家は(ルソーやヴォルテールのような)人々によって事実上暗くされた」
とフランス革命とそれを導いた啓蒙学者の非を断じることをためらわない。
そして、
「(フランス革命)は専制主義を(相続し、かつ)実行したのであって、それは永劫にわたってあらゆる専制主義の手本となるだろう」
――――――――――
と、現代の言葉で言えば、全体主義の原型であるとみなしていた。
ブルクハルトは、フランス革命をもって人類の不幸の開始と嘆息しつつ、断罪し続けた哲学者であった。
同様に、アクトン卿曰く、
――――――――――
「フランス革命を自由にとってかくも災害たらしめた最も深い原因はその平等論であった」
――――――――――
と、「平等」のドグマが自由ゼロの隷従の社会をつくることを何度も明晰に指摘した。
バークを筆頭とするこれらの真正保守主義者らは、自由を価値とし自由の源泉である社会秩序を自生的な歴史的産物と見るのに対して、ルソーを筆頭とする社会主義者らは社会秩序を人為的かつ強制的に理性でつくり自由ゼロの(貧困の)完全平等の体現こそ人間社会の絶対的理想だと考える。両者は天と地のごとく一切の共通項をもたない対極的なものである。
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――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
以下に中川八洋・筑波大学名誉教授の著書の他、真正自由主義/バーク(=真正)保守主義(哲学)を学ぶための著書の一部を以下に紹介しておく。
私〔=ホームページ作成者〕としては、バーク保守主義(=真正自由主義=真正保守主義)とはどのようなイデオロギーか?
全体主義(社会主義・共産主義)とはどのようなイデオロギーか?
をまず知ること、理解することが必要であると考える。
そのためには、1→2→12→4の順に読み進めて行き、あらゆるイデオロギー及び哲学の基礎概念を理解した上で、他の図書を読んでいくのが良いであろう。
とくに、私〔=ホームページ作成者〕は、1 中川 八洋『正統の哲学 異端の思想―「人権」「平等」「民主」の禍毒
』については一冊まるごと暗誦するほどに読む価値があると考える。
なぜなら、日本国民は、日本国の文部科学省による義務教育及び高校・大学教育において、「人間の権利(=人権)」・「人民(国民)主権」→「フランス革命の真実」→「民主主義(デモクラシー)」→「全体主義(社会主義・共産主義)」などの概念の真の意味とそれらが目指す真の目的とその実践の結果である歴史事実について全く教育されないからである。
反国家つまり反日の日本人が多く誕生するのは、このような、戦後の文部科学省(文部省)の意図的な「左翼哲学一辺倒の教育」の成果であると言って過言ではない。
欧米の自由主義国家において、哲学や政治哲学を学ぶ者が「保守主義の父」エドマンド・バークや「米国保守主義の父」とも言えるアレクサンダー・ハミルトンの名前やその思想を全く知らない、あるいは法学(憲法学)を学ぶ者がエドワード・コークやウィリアム・ブラックストーンの名前やその著作を全く知らない、さらに、自由主義経済学を学ぶ者が、F・A・ハイエクの経済学・経済思想・自由主義哲学を全く知らない、などということは、あり得ないことである。
が、日本国の教育は世界の常識を全く転倒していて、日本国民はその名前も著作名も全く聞いたことがない、教育されたことがない。
逆に、日本国民が知っている、聞いたことのある哲学者の名前や著作名とは、デカルト、ルソー、ホッブス、J・ロック、ヘーゲル、ベンサム、J・s・ミル、コント、スペンサー、マルクス/(エンゲルス)、フロイト、サルトル、ハイデカー、フーコー、レーニン、スターリンなど、左翼・極左・全体主義哲学オールスターズであろう。
文部科学省の義務教育及び日本の大学教育の方針は異常であり、「思想的に偏向しすぎ」である。
言い換えれば、これらの偏向教育の在り方こそが、日本国民に対する真の「思想の自由の侵害(=〈教育しない・知らさない〉という思想の検閲)」あるいは「知る権利の侵害」であり、明白な憲法違反ではないのか。そこには、恣意的に日本国(日本社会)と日本国民を特定の目的(社会)へ導かんとする強固な意図が感じられる。
この文部科学省(文部省)及び日本の大学教育による戦後教育による偏向的な思想呪縛(洗脳)から覚醒するためには、中川 八洋『正統の哲学 異端の思想―「人権」「平等」「民主」の禍毒
』の完全理解が必要であろう。
また、解かれた呪縛の穴埋めをするためには、真正の保守主義(哲学)・自由主義(哲学)の著作であるE・バークの著作やその解説書に加え、14 A・ハミルトンら『ザ・フェデラリスト』及び15 W・バジョット『英国憲政論』、16 F・A・ハイエク『ハイエク全集T〜[』なども必読であろう。
1 中川 八洋『正統の哲学 異端の思想―「人権」「平等」「民主」の禍毒
』
2 中川 八洋『正統の憲法 バークの哲学 (中公叢書)』
3 中川 八洋『福田和也と“魔の思想”―日本呪詛(ポスト...』
4 中川 八洋『保守主義の哲学―知の巨星たちは何を語ったか』
5 中川 八洋『女性天皇は皇室廃絶―男系男子天皇を、奉戴せよ』
6 中川 八洋『国民の憲法改正―祖先の叡智日本の魂』
7 中川 八洋『連合艦隊司令長官 山本五十六の大罪―亡国の帝国海軍と太平洋...』
8 中川 八洋 渡部 昇一 共著『教育を救う保守の哲学―教育思想(イデオロ...』
9 中川 八洋『歴史を偽造する韓国―韓国併合と搾取された日本』
10 中川 八洋『国が亡びる―教育・家族・国家の自壊』
11 中川 八洋『中国の核戦争計画―ミサイル防御(TMD)...』
12 エドマンド バーク『フランス革命の省察』(半沢 孝麿 訳)
13 中川 八洋『亡国の「東アジア共同体」―中国のアジア覇...』
14 A・ ハミルトン/J・マディソン/J・ジェイ『ザ・フェデラリスト』
15 『世界の名著 (72)バジョット・ラスキ・マッキーヴァー』(英国憲政論)
16 F・A・ハイエク『ハイエク全集 1-8巻 新版』、Friedrich
August von Hayek
17 『皇統断絶――女性天皇は、皇室の終焉』 中川 八洋
18 中川 八洋『地政学の論理――拡大するハートランドと日本の戦略』
19 中川 八洋『近衛文麿の戦争責任――大東亜戦争のたった一つの真実』
20 中川 八洋『民主党 大不況(カタストロフィ)』
21 A・トクヴィル『アメリカの民主政治(上)(中)(下)』
22 オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』
23 ヤーコプ・ブルクハルト『世界史的考察』
24 ギュスターヴ・ル・ボンバーク『群集心理』
25 エドマンド・バーク(中野好之 編訳)『バーク政治経済論集』
26 中川八洋『與謝野晶子に学ぶ――幸福になる女性とジェンダーの拒絶』
27 中川八洋『悠仁天皇と皇室典範』
・・・等々
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