保守主義の哲学---英国の偉大なる宰相、MARGARET・THATCHERのバーク保守主義
英国の偉大なる宰相、MARGARET・THATCHERのバーク保守主義(目次)
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サッチャーの各著作の表題を抜粋した。 ただし仮題:は、私〔=HP作成者〕が付けた。 |
私〔=HP作成者〕が、各項の内容を簡潔に示した。→順不同で興味のあるものから読んで頂くため。 |
1 |
F・A・ハイエク『隷属への道』と出会う |
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保守(自由)主義と社会主義 |
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3 |
中流階級の“価値観” |
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挑戦の始まり |
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財政支出の削減について |
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国民国家あっての国際連合 |
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国家の否定は自己の否定 |
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法に基づく秩序維持 |
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貧困層は本当に「より貧しくなった」のか? |
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「貧困」に対する態度・姿勢の相違 |
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家族の危機 |
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エドマンド・バークの価値観 |
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「子育て」は「自分育て」 |
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経済学の裏にあるもの「何が正しいのか?」 |
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労働党政策からの脱却 |
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税制のHint「消費増税は所得減税と1セットにせよ」 |
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領土侵略は国家主権の侵害 |
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国連憲章51条で保障される自衛のための武力行使 |
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正義の勝利 |
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「自国の反核」の絶叫一辺倒=「敵国の核是認」 |
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21 |
暴力で国民弾圧をする統制政府は必ず滅びる |
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22 |
自由主義社会の価値観を回復せよ |
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「内なる敵」は労働組合、日教組のマルクス主義者 |
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ビクトリア朝の美徳 |
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欧州諸国、米国の存在が前提のEU連合であるべき |
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26 |
イデオロギーの師は、エドマンド・バークである |
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(サッチャー曰く、)
私の政治的体質にとって一貫して重要であり、続けた伝統的な経済自由主義――それはエドマンド・バーク自身も奉じていたものだった――は、もっと高い社会階級出身の保守党員にとっては、おうおうにして異質で、性に合わないものだった。
結局のところ、広範な生産とサービスの分野に国家統制と計画を拡張することを提案したのは、1938年、大きな影響力をもった『中道の道』という本を書いたハロルド・マクミランその人にほかならなかった。
ほかの保守党員は、どんな種類の理論も受け入れようとしなかった。
彼らは、J・S・ミルが使った“愚かな党”という名称を賛辞だと受けとったのである。
社会主義的計画や社会主義国家に対する、もっとも説得力あふれる批判の書として、私がこのころ読み、その後もたびたび読み返しているのは、F・A・ハイエクの『隷従(隷属)への道』だが、この本はよく知られているように「すべての党の社会主義者たちに」捧げられている。
・・・ハイエクの主張を保守党支持者が賛同する種類の国家――法の下の小さな政府――という観点から考えるようになった。
われわれが避けなくてはならない種類の国家――官僚が自由裁量で支配する社会主義的国家――ではなく。
この段階で私に影響を与えたのは『隷従(隷属)への道』に描かれていた社会主義に対する回答不能な〔私にはそう思えた〕批判であった。
ハイエクは、ナチズム――国家社会主義――は19世紀ドイツの社会計画にそのルーツがあると見ていた。
彼は、国家が経済や社会のある分野に介入すれば、他の分野にまで介入を拡大しようとする、ほとんどあらがいがたい圧力が生まれると見ていた。
彼は何世紀にもわたって発展を続けた西欧文明にとって、国家計画がどれほど重大な革命的な意味を持つかについて、われわれに警告を発したのだった。(サッチャー『サッチャー私の半生[上]』、日本経済新聞社、80〜81頁)
(サッチャー曰く、)
私の立候補が、全国だけでなく海外にも知られたことは幸運だった。
24歳の私は、1950年の選挙に出馬して戦った中で一番若い女性だった。
・・・このころでさえ、私の演説はイデオロギー的に手心を加えることをしなかった。
だから、ローフィールド通りのチャーチ・ホールでの集会では、次のように話したのである。
私たちは、イギリスがこれまでに経験した最大の戦いの一つに突入しようとしています。 二つの生き方の間の戦いです。 一つは、必然的に奴隷状態につながる生き方であり、もう一つは自由につながる生き方です。 私たちの対立候補者たちは、保守主義が少数の者の特権であると、皆さんに信じ込ませようとしたがります。 しかし、保守主義は、私たちの国(家)の伝統の中にある偉大で最善のものすべてを保持するのです。 保守主義の最初の信条の一つは何でしょうか? それは国(家)としてのまとまりであります。 一つの国(家)であって、別の階級に敵対する一つの階級ではありません。 羨望や憎しみを広げることでは、偉大な国(家)あるいは人々の友好を築き上げることはできません。 私たちの政策は、羨望や憎悪の上につくられたものではありません。 それは、一人一人の男女の自由の上に築かれたものです。 成功を抑圧することは、私たちの政策ではありません。 私たちの政策は、成功を奨励することであり、活力と自主性を奨励することです。 この国(家)を、1940年に全体主義に対して立ち上がり、戦うことにさせたのは、ナショナリズムの叫びではありません。 それは、自由を求める叫びだったのです。 |
(サッチャー『サッチャー私の半生[上]』、日本経済新聞社、109〜110頁)
(サッチャー曰く、)
その代わりこんな非難が広がり始めた。
私が提唱する保守主義は中流階級の、特に南部の一般の保守党員には受け入れられるが、態度を決めていない層を引き付けることができない、というわけである。
この点について、私は1月30日木曜日付の「デイリー・テレグラフ」紙にこう書いた。 〔教育相だったとき〕私は「中流階級の利益」を守るための後方支援活動をしていると攻撃を受けました。 私が社会主義的な資本移転税制の導入に保守党の立場から反対しているためです。 しかし、「中流階級の価値観」とは社会の多様性と個人の選択の自由を促進し、熟練した技能とまじめな労働力に対する正当な利益と見返りを提供し、国家の行き過ぎた権力に対する効果的な歯止めを維持し、そして一人一人に“私有”財産を幅広く分配することを意味するものなら、これこそ私が守ろうとしているものに他なりません。 ・・・もし、私有財産を個人の自由を守る重要な防波堤の一つであると考えていない保守党員がいるとすれば、彼は社会主義者になって、それを廃止したらよいのです。 私たちが総選挙で負けた理由の一つは、あまりに多くの保守党員がすでに社会主義者になってしまっていたからです。 イギリスの社会主義に向けての前進は二歩前進半歩後退の繰り返しだった。 ・・・こうしたことについて罪の自覚がないような政党をいったい誰が支持すべきだというのでしょうか。 |
このテーマ――保守主義の原則への回帰と中流階級の利益の防衛――は党内で大きな支持を得た。
(サッチャー『サッチャー私の半生[上]』、日本経済新聞社、366頁)
(サッチャー曰く、)
恒例として、私は新党首として党本部をはじめて訪問した。
・・・家族の誰もがこの瞬間から、いままでと同じ暮らしはもうあり得ないことを感じていたのではないかと思う。
保守党自体も同じままではあり得なかった。
翌日の「デイリー・グラフ」紙の社説はこう書いている。
サッチャー夫人がどのような指導者になるのかいまは断言できない。 ・・・しかし、この時点で一つだけはっきりしていることがある。 サッチャー夫人が筋金入りの闘士だということだ。 一生懸命働くことの価値を重んじ、それに成功という大きな見返りがあることを信じている。 彼女自身、質素な家庭に育ち、自分の努力と能力と勇気で道を切り開いてきた。 親ゆずりの富や特権とは無縁な人である。 それゆえ、彼女は20世紀の保守党が富を罪だとした致命的な、象徴的な過ちを犯さないように心すべきである。 この過ちのおかげで、保守党員たちは社会主義に対抗して資本主義を擁護するとき、自分たちが道徳的な面で不利な立場に置かれていると考えることがあまりに多かった。 イギリスが転げ落ちるように集産主義への道を進んでしまったのは、これが一つの理由である。 サッチャー夫人がなすべきことは、社会主義に対する保守党の攻撃に欠けている道徳的な意味を与えることである。 もし、それが出来るならば、彼女の党首就任はこの国の政党政治をめぐる議論を大きく変える結果を生むであろう。 |
それは、途方もない挑戦であった。
だが、私はこのとき、それがどれほどすさまじいものになるかに気づいていなかった。
(サッチャー『サッチャー私の半生[上]』、日本経済新聞社、374〜375頁)
(サッチャー曰く、)
キース・ジョゼフの演説は、彼が政策研究センターで発展させた力強いテーマをうまく伝えた。
3月にハローで彼が行った演説は、高水準の雇用のためには膨大な公共支出が必要であるとする政府に真正面から反対している。
事実キースは次のように演説した。
政府の過度の支出こそが失業問題の主要で、また頑固な根源なのです。 もしいま、われわれが経済を救い、ひいては雇用水準を高め、これを安定化しようと考えるならば、歯止めのなくなっている財政支出を即刻削減することが必要です。 一人のポールの職を守るために何人ものピーターに失業手当を出さねばならないのです。 富を創出する民間部門の何人ものピーターの職が、富を食いつぶす公共部門のポール一人に職を与えるために失われています。 このように保護された職は容易に目につき、一部に集中している一方、失われた職は人知れず、広く分散しているのです。 |
私は「マネタリズムだけでは不十分」と題したキースのストックトン講演が刊行されたとき、序文を書いた。
これは数カ月後、世に出たが、大多数の影の閣僚がマネタリズムを受けいれるにはほど遠い状況だったので、この表題は重要な真実を意図的に大胆に表現したものであった。
通貨供給の抑制の実施だけでは「不十分」だった。
それでインフレは確かに鎮静化するだろうが、もし公共支出と公共借り入れの削減に失敗すれば、インフレ退治の重荷がすべて、富を創出する民間部門にしわよせされることになってしまうのだ。
キースのストックトン講演を手伝ったアルフレッド・シャーマンが、1977年3月14日月曜日、チューリッヒ経済協会で私が行なった演説の草稿作成を手伝ってくれた。
これはスイスでの講演だったが、イギリス国内の聴衆を強く意識したものだった。
アルフレッドと私は、現在の経済危機にもかかわらず、イギリスの将来に明るい見通しを述べる箇所に力を入れて作業をした。
潮の流れは集産主義に背を向け始めています。 この変化は社会主義下における苦い経験に対する嫌悪の念に根ざしたものです。 潮の向きは失敗から遠ざかっています。 しかしながら、これは望む目的地に自動的にわれわれを運んでくれるものではありません。 理にかなった内容を与え、政治的方向付けをするのは、われわれに課せられた役目です。 万一失敗すれば潮の流れは失われてしまいます。 しかし、これに乗ることができるなら、今世紀最後の4分の1が、わが国の長く輝かしい歴史にも例のない新しいルネサンスの口火となり得るのであります。 |
(サッチャー『サッチャー私の半生[上]』、日本経済新聞社、418〜420頁)
(サッチャー曰く、)
1991年9月、ニューヨークでの各国国連大使への演説で、私はこの傾向(→民族国家は主権を放棄し、国連が世界政府になるべきという西側の左翼的リベラルの論調)に反対の意を表明した。
この中で私は、ソ連の構成国民や中・東欧に明白な“新ナショナリズム”を擁護した。
これらの動きは、共産主義の暴政に対する反動であり、これを支持している人々の大部分は確信をもつ民主主義者なのだ。
そして、これらには行きすぎの危険があるだけ、民族のアイデンティティーを抑圧しようとすれば必ず失敗するし、もし失敗すれば、民族的熱情がよりいっそう盛り上がることの証明としてとらえるべきである。
私はそう主張した。
それは国連の将来にとって重要な意味をもっていた。
真の国際主義は、常に国家間の協力によって成立するでありましょう。 それが、この言葉の意味であります。 そして同様に、最高の国際主義をめざすところの国際連合は、その名前からして私たちにその真の目的を想起させます。 皆さん方のすべての審議の起点は、皆さんが国家の代表だというところにあります。 往々にしてとらえにくい皆さんの目標は、国家同士が何らかの共通の目的で一つになるべきだというものであります。 しかし、めざすべきは国家が一つになることではなく、目的を一つにすることなのです。 |
(サッチャー『サッチャー私の半生[下]』、日本経済新聞社、242頁)
(サッチャー曰く、)
・・・国家の存在、民族国家、そして国家主権は、安定的な国際システムの裁量の基礎だということである。
表面的には、これはパラドックスに見える。
ヨーロッパの平和を二回の世界大戦で引き裂いたのはナショナリズムではなかったのか。
実はこの答えは、もっとも重要な意味において「ノー」である。
第一次世界大戦の背景は、多民族帝国の不安定であったし、民族を超えた世俗的な宗教である共産主義やナチズムが第二次世界大戦を引き起こすことになったのである。
そして両大戦において、侵略に強く抵抗し、勝つことができたのは強い民族国家だけであった。
しかしいずれにせよ、国家――そしてそこに生じる忠誠、摩擦、制度――がない世界が望ましいと主張しても無意味である。
なぜなら、予見できる未来において、そのような世界は絶対にあり得ないものだからである。
保守派の認識では、政治とは現存している世界をできるだけよいものにすることであり、できないものに関する青写真を描くむなしい作業ではない。
もちろん、外国人嫌いにもとづく偏見は強制収容所、拷問、民族浄化などにつながることもある。
しかし、そのような罪はおおむね、抑圧され、あるいは歪曲されたナショナリズム、あるいは今日では、共産主義者にのっとられたナショナリズムの結果である。
つまりそれらは、われわれが自分の国を誇りに思うべきでないとか、あるいは他国民が同様に愛国心をもつことを非難すべきだという理由にはならない。
マフィアが家族制度に基礎を置くからといって、家族が有害な制度だということにはならないのと同じである。
保守派にとって、国家とは〔家族のように〕、深遠で肯定的な社会的価値をもつものである。
国家の伝統と象徴的な意味をよりどころとして、対立する利害関係をもつ個人が、共通の利益もために協力し、犠牲を払うよう奨励することが可能になる。
国家の存在は、方向を見失わせるような激しい変化に対して、われわれに心理的な錨、すなわち連続的存在であるという気持ちをもたせてくれるアイデンティティーを与えるものである。
この意味で、国籍をどうでもよいと思う人は、自分の家族的背景や〔G・K・チェスタートンの有名な言葉にあるように〕宗教的な信念を捨てる人と同じように、社会にとっての潜在的危険なのである。
そのような人は、すぐに中途半端なイデオロギーや情熱にとらえられ、その犠牲になりやすいからだ。
確かに、歴史に残るような罪を犯した国もあるのだから、ナショナリズムには不快で、危険さえ言えるものもある。
そうだとしても、一切の過去に背を向けてしまう国の方が、過去を大切にする国よりもよい隣人かどうかは、疑問である。
もっと成熟した反応は、自国の過去に、もっと品格があり、もっと開かれた国としての意識を築けるような高貴なエピソードやテーマを見つける態度であろう。(サッチャー『サッチャー私の半生[下]』、日本経済新聞社、256頁)
犯罪増加の現実
(サッチャー曰く、)
国家のもっとも主要な目的は秩序の維持にあるという点では、理論家も現実主義者もだいたい意見を同じくしている。
法の下で秩序が維持されること、法が権利を尊重すべきことは理想である。
しかし、国家に秩序維持に対する意思と能力がなければ、ふとどきな者だけでなく、善良な国民までも国家の権威を軽んじることになる。
犯罪者が法を逃れているのを見れば、法に従う国民も嫌気がさしてくる。
市民や地域社会は国家的な制度や機関から離反して、内向きになり、法の執行当局を信頼しなくなって、程度に違いはあれ、自分自身、家族、隣人を守るために自警主義に走ることになる。
この社会的な崩壊がある線を越すと、逆転させるのは不可能に近くなる。
これこそが、西欧諸国の政府が犯罪と暴力の増加傾向に懸念を深めるべきより大きな理由なのである。
(サッチャー『サッチャー私の半生[下]』、日本経済新聞社、279頁)
(サッチャー曰く、)
もっとも注目に値することは、冷蔵庫、洗濯機、セントラル・ヒーティング、電話、VTRなどの消費者耐久財がこのグループ内で急激に普及していることである。
このような事実を踏まえると、「貧困層はより貧しくなった」という表現に代表される見方はとても信用できない。
これに対して、社会保障予算は福祉依存を含む反社会的な行動を促すもので、真剣な改革を必要としているという結論は理にかなっている。
犯罪者の分野と同様、福祉依存に関しても大胆で、非常に核心をついた疑問を呈するのは主にアメリカの学者である。
チャールズ・マレーによる先駆的論文「1950年から1980年までの米国社会政策の後退」は、善意に根差した連邦政府の貧困撲滅政策が、いかに近年、現実には貧困を増長させるという正反対の悪い結果を招くことになったかを示している。
就業の意欲をそぎ、婚外交渉による出産がやっかいなことではなく経済的に徳になるようにし、一方では犯罪に対する刑罰を軽減し、就学児童の不品行や欠席に軽い措置で対応することで、政府が行動規範を変えてしまったのである。
(サッチャー『サッチャー私の半生[下]』、日本経済新聞社、281頁)
(サッチャー曰く、)
一般的には、扶助を支給するには、生活扶助を受けながらわざと職に就かないことがないように、福祉規則の違反者には、罰則規定の脅しをともなって実施する必要がある。やる気がない、働くことにやりがいを認めない、ヤミ経済の臨時雇いの仕事の方が支払いがいいなどいろいろな理由で職探しをしないことがあるのである。さらに、現実的な就職先を未経験者に提供しようとするならば、技能は要しないが賃金は低い雇用を消滅させるような最低賃金法などの規制を排除しなければならない。
しかしながら、「貧困層」に関して誤った前提を立てているのであれば、福祉依存を絶つ正しい政策の立案、実施などできるはずがない。
・・・少なくともエリザベス朝以降、一般の考え方でも貧困救済の公式な手続きでも、救済に“値する者”と“値しない者”は厳然と区別されてきている。
・・・世帯主が苦境に陥り、家族が苦しい状態にあるにもかかわらず、慈善を受けない例がグランサムやイギリス中の町にあったことを知っている。国が制度として設けている福祉も施しだからといって受けとらず、何としても自活し、誇りを捨てない人たちである。
「自分でやっていく。一銭たりとも誰からも施しを受けたことはない」とこの人たちは言う。
極端な場合は、この独立の心意気が苦難につながることもある。隣人ができるだけうまく助けてやろうとすることもあろう。
しかし、不幸にもこのような誇り高さが招いた苦境の例は、福祉依存を避けようとすることのもう一つの面なのである。
これと対照的に、独立の意気と対面を捨てて、国に頼りきり、生活を改善する何の努力もせず、子供によき人生のスタートを切らせることもしない人たちもいた。
こうした例は私がロンドンに引っ越してからずっと多く生き当たるようになった。
社会が前者のグループに信望を与え、後者を蔑んだという事実は、社会的圧力がおしなべて良性のものだったということを意味した。
これら二つのグループの中間に属する人々は、われわれのほとんどがそうであるのだが、職を見つけ自分と家族の生計の糧を得るのが普通だったという意味においてである。
このような見解は過酷に思われるかもしれない。
しかし、努力、節約、独立の精神、家族に対する責任感といったような美徳を奨励する社会は、自分は役に立たず、やる気がなく、不満だらけだと人々に思い込ませる社会に比べると、自尊心が高く、したがってより幸せで〔他人の負担にもならない〕人間をつくり出すものである。
たとえこの通りでないにしても、国家と社会は、同情心がると同時に公正でなければならない。
努力を惜しまない者と惜しむ者を同じに扱うのは公正ではない。両者の間に区別をおかなければ、そのような不公正さから利益を得る者にやる気をなくさせ、ついにはそうでない人たちの間に憤りが生まれるのである。
(サッチャー『サッチャー私の半生[下]』、日本経済新聞社、282〜285頁)
(サッチャー曰く、)
家族は明らかにある種の危機に直面している。問題は危機の正体である。
家族は弱体化しているのではなく、変化しているのだという人がいる。
極論の一方には、同棲している同性愛カップルのような形態も含むどんな世帯も、子持ちのカップル(→法律婚の夫婦)と同程度の社会的な認知と尊敬を受けるに値する“家族”だとの見方がある。
これより数の上で多いのは、未婚であっても「安定した」同棲生活にあるカップル(→事実婚)が子供の有無、将来正式に婚姻関係を結ぶか否かに関係なく、同様に扱われるべきだという意見である。
おそらくもっと多い意見は、簡単に婚姻と離婚を繰り返す周期的な一夫一婦制のカップルを“新しいライフスタイル”として認めるものである〔1960年代の離婚法の改正によってイギリスでも他の西欧諸国と同じように離婚率が急上昇している〕。
そして幸いなことに、父親・母親・子供・親戚で成り立つ伝統的な家族も存在している。
・・・この“ライフスタイル”が極めて無責任なもので、納税者に大きな負担を強い、父親の指導を知らずに相対的に貧困な家庭で育てられる子供に非常に不利な条件を課す・・・。
・・・このグループ(→扶養家族としての子供を抱えた片親家族)には、未亡人、離婚された女性、見捨てられた未婚の母親、そして父親も含まれる。なかでもここで大きな問題として取り上げるのは、終生“結婚(婚姻)関係なし”のグループである。
これら片親家族の状況は表面的に類似していても、異なった原因がもとになっており、後述するように、その対応策にも異なったものが要求されるのは言うまでもない。
非常に単純化すれば、子持ちの未亡人は財政的な援助を必要としており、“結婚(婚姻)関係なし”のグループは金銭的な援助だけでなく、ものの見方を変えることを必要としているのである。
・・・このような環境(=近所に、未婚の母親が頼りにできる、年配の男性で結婚している者が誰もいない環境)で育つ子供は、父親のしつけができないばかりか、いたいけな子供を守ったり、社会的なしつけを施したり、しっかりした父親の範を示すことができる責任感のある大人も周囲にいない。
この結果、子供たちは落書き、麻薬の取引、破壊行為、チンピラ・ギャングの仲間入りをし、警察もお手上げの状態である。財政的なコストも高い。
・・・過去10年間で、私生児の比率は二倍以上になり、3件の出産のうち1件が私生児である。
これは、イギリスの歴史上かつてなかった現象である。行動規範の乱れの説明や言い訳として手っ取り早く使われる都市化現象でこれを説明することはできない。
(なぜなら)全国的な都市化の傾向が顕著であったビクトリア朝時代には、私生児の出産率が犯罪発生率と同様、実際に低下したのである。
いま、婚外出産4分の3が実際の両親に認知されている事実を挙げて、この社会変化の意味をなるべく小さく見ようと試みられることもある。
子供が安定した家庭に生まれている証拠だということらしい。
しかし、子供には両親がずっとそばにいてくれるという全面的な安心感がなければならない。
父親と母親がお互いに十分な責任を感じて結婚するのでなければ、子供が自分に対する親の責任感を疑うようになっても決して驚くにはあたらないであろう。
そして子供の心は多くの大人が考えるよりもこのようなことに敏感なのである。
(サッチャー『サッチャー私の半生[下]』、日本経済新聞社、285〜288頁)
(サッチャー曰く、)
価値観なくして自由社会は機能できるものではない。歴史を通して、ほとんどの深遠な思想家がこれを認識してきている。
エドマンド・バークがこの点を誰よりも明確に要領よくまとめていると私は思う。
(エドマンド・バーク曰く、) 人は、自らの私欲に道徳的な枷を施す意思に比して、 正義への愛が強欲に先行するその度合いに比して、 英知の健全さと沈着さとが虚栄と無恥に先行するその度合いに比して、 邪悪なる者の甘言を退け賢者と徳高き者に傾聴する用意を持つ度合いに比して、 公民的自由をもつことが、許されるものである。 社会は人の私欲を制御する権力がどこかになくては存在し得ず、 かつ、その権力が個人の内に少なければ、それだけ、より強力なる権力が個人の外のどこかに存在しなければならない。 節度なき心をもつ人は自由たり得ぬことは、物事の永久の本質に定められている。 人の激情の炎は、自らの足枷をつくり出すのである。 〔エドマンド・バーク「国民議会メンバーに告ぐ」1791年〕 |
同じように、アメリカ憲法の枠組みをつくった人たちは、自由を守るために徳に頼る選択をしたが、建国の父たちは道徳の重要性を認識していた。
偉大な愛国心の賛歌にこうあるとおり通りである。
自制のなかに気迫を固め、
法のなかに自由を養え。
国民性は国家の性格に影響を与え、かつ国家の性格から影響を受ける。
これは心強いことで、国民の水準が政府より高い場合には、政府を入れ替え、才能がありながらも野にあった人間を登用し、新たな可能性を切り開いていくことができることを再保障するものである。
これは、1970年代の後半に私自身にそうさせてくれた。
しかし、これは警告でもある。
しっかりした自由主義政府の制度も、一般国民や政治集団の物の見方や心理状態の大きな変化には脆い。
品性は、個人であれ集合体であれ、いろいろな方法で形成される。
家族、学校、教会、仕事先、また余暇も品性の形成の場である。
このような経過を経て形成された善良で有益な品性は、昔から「(美)徳」と呼ばれてきた。
・・・キリスト教の信者は保守主義者でなければならないという見方には同調しないように私自身は努めてきたのであるが、(保守〈自由〉主義者である)私が望ましいと思う経済政策とキリスト教の見識との間には、深遠で神の摂理による調和があるという確信を失ったことはない。
私はこの関係ついて、1987年3月、ロンドンのシティーにあるセント・ローレンス・ユダヤ人教会での演説で触れた。
何らかの道徳的枠組み、共通の信義にもとづいた何らかの制度、教会や家庭、学校などから得る 何らかの精神的な伝統をもって実践されなければ、自由は自滅してしまうでしょう。 自由はまた、目的がなければ自滅します。 神の御業を「完全な自由(→美徳ある自由、高貴なる自由)」として賛歌する祈りがあります。 私のイギリス国民への願いは、われわれが「神に仕える自由を(→神の摂理・神慮への畏怖を伴う自由)をもつ」ということであります。 新約聖書によれば、社会に関して二つの広くいきわたった、一見相反しているような見方があるように思えます。 イエス・キリストの身体としての地上の教会という考え方に表現されているキリスト教のかの偉大な教理、人類はみな兄弟であるというのがあります。 これから、われわれは相互依存ということ、また社会の一員とならない孤立のなかでは、幸せも救済も得ることはできないという偉大な真理を教わりました。 これは、われわれの政治的思考に大きな影響を与えてきた偉大なキリスト教の真理であります。 が、一方では、われわれ(キリスト教徒)が善悪の選択力をもった責任のある道徳的存在であり、創造者の目には無限に貴重な存在であるとする考え方であります。 この二つの考え方を互いにどのように正しい関係に保つかが施政の智恵といってもいいでしょう。 |
通常、私は政治家が説教をすることには賛成していない。
しかし、政治色の強い説教をする聖職者は多いし、遠慮しなければならない道理もなさそうである。それで、ときおり私はこのテーマを取り上げることにしている。
・・・伝統的な徳を実践するのに適した知的、道徳的な風潮が戻ってくることを期待することは、つい最近までは非現実的のようであったが、いまでは、社会問題の真剣な議論の最前線に位置するようになっている。
さらに、国民の姿勢を正す仕事の大きな部分を担当しなければならない教会関係者のリーダーのなかに、国の対策や介入の慈善効果について再考している人たちが出てきている。
たとえば、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世は全司教に送る回勅のなかで次のように述べている。
(ローマ法王ヨハネ・パウロ二世曰く、) 福祉国家は、社会に直接介入してその責任感を殺ぐことにより人間のエネルギーを喪失させ、公的機関の過度の膨張を招くが、これは困窮者に対する懸念よりも官僚的な考え方に支配されたもので、国家予算の著しい増大をともなう。 実際、困窮者の必要事は、彼らの周辺にいる者、救いを必要としている者の隣人がもっとも理解でき、満たすことができるもののように思われる |
(サッチャー『サッチャー私の半生[下]』、日本経済新聞社、291〜295頁)
(サッチャー曰く、)
家族の強化は、片親、特に若い未婚の母の扱いから始まらなくてはならない。
・・・片親でも育児は可能だが、決してたやすいことではない。
妊娠して、公営アパートに入るために自分から親元を離れるか、愚かさゆえに家出をするかして独りになった女子は、それこそ突然、面倒な乳幼児の世話に追われることになる。
そしてその子が男の子で父親不在のまま育っていくと、何かつまずきがあれば問題が生じることが多いのである。
もちろん、なかには内輪のやりくりで切り抜ける者もあろうし、適格な専門家あるいはボランティアの助けを得る者もあろう。
しかし人間というものは弱い者だから、子を守ろうとする母親の本能すら困難と憂鬱に圧倒されることになりがちだ。
困難に直面するのは、母子だけではない。
結婚への真剣な責任、特に結婚と子供に対する責任が多くの若い男性にとっては人間形成の過程なのである。
おそらく生まれて初めて、目を開いて自分以外の者に対する責任を考え、その責任をまっとうするために将来の展望を考えなければならない立場に置かれる。
このような責任を問われることがなければ、彼らが自分の男らしさを発露する手立ては、街頭にたむろし、犯罪の世界に生き、若い女性を妊娠させること以外にないと考えることになりがちである。
このような行動パターンはアメリカの“アンダークラス”にもっとも顕著である。ほかの層やアメリカ以外の国でもこの徴候が見られるようになっている。
・・・家族を強化することは、それに対する脅威を取り除くだけにとどまらない。社会の基礎的な単位として家族をまじめに考えるのならば、それには経済政策における意味合いというものがある。
たとえば、それは、税制に反映されるべきである。
かつては税制が家庭への責任を考慮するのが課税原則であった。
しかし、この原則は、税控除が廃止され、定額の育児手当がこれに置き換えられることによって消滅した。
育児手当は、責任の引き受けという原則に少なくともある程度の意味を認めるものである。
しかし、扶養家族としての児童税控除は、育児の公平かつ効果的な制度の一部として復活すべきものであると私は信じている。
(サッチャー『サッチャー私の半生[下]』、日本経済新聞社、299〜302頁)
経済学の裏にあるもの
(サッチャー曰く、)
・・・彼(=J・M・ケインズ)が属していた“ブルームズベリー”〔ロンドンの地名に由来する知的グループ〕のメンバーたちは日常生活のなかでビクトリア時代の美徳を拒否する行動をとった
(→『ケインズ全集10』「第六部 回想録二編 第三十九章 若き日の信条」、東洋経済新報社、565頁〜など参照)
が、それらは微妙にしかし間違いなく、経済学における古典自由主義の規範や規制を捨てる立場となって現われ、それが「ケインズ主義」の同義語になった。
・・・当時の経済論議はケインズの影響を強く受けており、社会主義的な色合いも目立っていた。
経済状態を改善する方法として政府の能力を強調し、市場経済に対する政府の直接的で継続的な介入を求める考え方である。
国家が賢明な方法で強大な権力を行使すれば、個人の生活や家庭や企業に課せられる制約や限界は打ち破ることができる(=国家には、制約や限界はない)というのである。
つまり、収入以上に出費すると個人の家庭であれば家計が崩壊してしまう。
しかし、〔(ケインズの)新しい経済学によれば〕国家にとっては、そうした行為が繁栄と完全雇用の道なのだ。
もちろん、これほど露骨な表現で語られたことはない。
たとえば、政府の財政赤字はまったく歯止めのないものではなく、「逆循環的」〔カウンターサイクリカル〕――つまり、景気後退の影響を埋め合わせる――ものとされた。
また、労働意欲をそいでしまうような水準の社会福祉給付を避ける必要についても口先だけの賛成論があった。
しかし、これらすべてには広く共通する考え方があった。
すなわち、政府には民間よりも高邁で合理的に設定された政策目的があるのだから、政府の支出は民間の支出より道義的にも実際的にも好ましいものだという認識である。
ミルトン・フリードマンやアラン・ウォルターズの著作を読む前から、私はこうした主張が真実であり得ないことを知っていた。
倹約は美徳であり、浪費は悪である。
こうした人間の行動規範が政治的な命令によって否定されるようだと、世の中はおかしくなってしまう。
私が野党の党首となり、そして首相を務めた間に起きたおそらくもっとも大きな変化は、政策立案者たちの大部分が〔そして多くのエコノミストさえも〕私と同じような考え方に変わったことであった。
政府借り入れの増加が市場金利に対する上昇圧力になることは、一般的に理解されている。
財政赤字がさらに膨らみ、通貨供給量の増加を加速し、そしてインフレが進む可能性がある場合、こうした金利の上昇傾向は特に顕著になる。
つまり、財政赤字の膨張を許しておくと、経済成長は加速されるどころか、失速してしまうのである。
ほかの機会でも述べたことだが、1981年の(サッチャー内閣の)予算はこうした経済の真実を踏まえたものであった〔『サッチャー回顧録』上巻170〜178頁参照〕。
私たちの戦略を攻撃する声明を出した364人のエコノミストは、私たちの考え方が、広く受け入れられている正統的な方法に対する露骨な挑戦だということに疑いをもたなかった。
しかし、私たちの挑戦は成功であった。
1981年の夏の統計は経済が成長過程に入ったことを告げ、次の四半期の統計でもそれは確認された。
国内経済は1983年まで好調を続け、フォークランド戦争が成功裏に終結したことへの反応も相まって、私が総選挙で順当に勝利をおさめることを確実にしたのである。
インフレについても、政府借り入れをめぐる議論と同様であった。
インフレと失業が「トレードオフ」〔どちらか増えれば、もう一方が減ること〕の関係にあるという、いわゆる「フィリップス曲線」の想定に立って、政府が何十年も経済を微調整してきた後、今では、雇用の数を左右するのは政府によるマクロ経済上の操作ではなく、長期的には、経済構造そのものに影響する各産業の変化――たとえば、規制緩和の効果など――であると広く理解されている。
“ある程度の”インフレが経済にとって望ましいなどと口にする人はいまではほとんどいなくなった。
(サッチャー『サッチャー私の半生[下]』、日本経済新聞社、307〜308頁)
第二章 変わるシグナル
(サッチャー曰く、)
われわれが困難でもくじけないことを支持者と反対者の両方にはっきり示す最初の機会は、女王演説だった。
新内閣ができて最初のロイヤル演説〔女王演説はこのように呼ばれている〕は、その内閣が在任中にどのような路線で臨むか、全体のトーンを示すものである。
思い切った新しい路線を敷く機会を逃すと、その機会はまず二度とめぐってくることはない。
そして世の中は、そのような政権のもとでは、口先だけ勇ましくても何の変化も起こらないことに気づくのである。
私は、明確なシグナルを世に送ろうと意を決していた。
女王演説をめぐる議論が終わる頃には、社会主義を逆転させ、選択の(自由の)幅を広げ、(私有)財産所有を拡大することを意図した、おおがかりな政策を下院が成立させ得ることがはっきりしてきた。
労働党がつくった国有企業委員会の活動を制限し、国有化された企業や資産の払い下げを開始するための法案が提出されることになりそうだった。
われわれは、公営住宅の借家人たちに、100%の抵当融資〔頭金なしで全額を貸し付ける住宅ローン〕も可能にして、大幅な値引きで住宅を買い取る権利を与えることにした。
新規の民間借家については、部分的な規制緩和を行なうことにした〔統制が何十年も続いていたため、借家したい人たちが家を借りられる機会は減り、労働力移動と経済の成長を妨げていた〕。
われわれは、労働党の地域土地法を撤廃することにした。
これは、不動産の開発から得られる利益を国のものにしてしまう労働党の試みで、土地不足を招き物価を上昇させていた。
われわれは、地方自治体にグラマー・スクールを廃止する義務をなくすとともに、学籍補助制度〔私立学校に国が一定の学籍を確保し、優秀だが経済的余裕のない家庭の子弟を進学させる制度〕を発表し、貧しい家庭の才能ある子供が私立学校に行けるようにした。
これは、私のような家庭出身の子供たちが自分を改善するチャンスを必ずもてるようにするための、さまざまな手段の第一歩であった。
最後に、われわれは地方自治体の直接労働組織〔通常、社会主義者が支配していた〕の腐敗した、無駄な活動を抑制することにした。
(サッチャー『サッチャー回顧録[上]』、日本経済新聞社、56〜57頁)
1979年度予算
(サッチャー曰く、)
われわれは、野党だった時代から、経済政策上必要な決断ができるよう、十分に準備していた。
おそらく、過去のどの野党に比べても周到に準備ができていたといえよう。
われわれは毎年、独自の公共支出計画を演習してきており、どの分野でどれほどの支出削減が可能かを見定めていたのである。
それだけでなく、影の内閣の閣僚とアドバイザーで“飛び石”グループ〔石から石へ飛び移るように目標に早く到達することから名付けられた〕を形成し、イギリス経済の衰退を逆転させるという全体的な目標を達成するためには、どのような政策を組み合わせたらよいかを検討してきていた。
このグループは、ジョン・ホスキンズが先頭に立っていた。
しかし、いくら前もって準備を整えていても、財政の不愉快な現実や予算の数字を変えることができるわけではなかった。
79年度予算に関して、5月22日と24日、私と蔵相の間で重要な話し合いが行なわれた。
(所得税の)最高課税率を〔83%から〕60%に、標準課税を〔33%から〕30%に、さらに公共部門借入需要〔PSRB〕を80億ポンド〔この額なら調達可能だと考えた〕にそれぞれ引き下げるには、付加価値税〔VAT〕(→例えば「消費税」)の2種類の税率8%と12.5%を、15%に一本化する〔ただし、食品そのほかの必需品については税率ゼロを変えない〕必要があるということを、ジェフリー・ハウ蔵相はうまく説明してみせた。
当然のことながら私は、課税をこれほど大規模に直接税から間接税に移すと、小売物価指数が4ポイントほど上昇するのではないかと心配だった。
これは物価に一回限りの上昇をもたらすことだった〔したがって、インフレは価格の継続的上昇という定義に従えば、本当の意味ではインフレ的なものではない〕。
・・・2回目の会議で、われわれは蔵相の提案通りに進むことを決めた。
付加価値税をこのように大幅に引き上げて財源を確保しなければならないにしても、所得減税は非常に重要であった。
・・・この予算案の主な内容は5月末の討議に忠実に従ったものだった。
所得税の基本税率の33%から30%への引き下げ〔最高税率も83%から60%に下がった〕、インフレ率を9%上回る基礎控除の引き上げ、そして新しい15%の統一付加価値税率の導入である
しかし、予算に盛られた大幅な所得減税のほかに、経済生活の多くの分野における規制を削減ないしは撤廃できた。
賃金・価格・配当の規制は撤廃された。
産業開発証明書、オフィス開発許可証、そのほか広範囲の通達や不必要な計画規制も廃止ないしは変更された。
ハウ蔵相の2度目の予算〔1980年度予算〕では、企業地区の設立が発表されることになっていた。
この指定地域の企業には税を軽減し固定資産税を免除することによって、衰退地域に投資を誘致し、雇用を促進するねらいだった。
しかし、私にとっては為替管理の撤廃が何よりもうれしかった。
イギリス人が入手できる外国為替の額に対する事細かな法的な規制が撤廃されたのである。
・・・為替管理の撤廃は個人や企業の自由を増したばかりではない。
イギリスへの外国投資、海外へのイギリス投資を促進し、北海油田が枯渇した後も長く続くであろう貴重な収入を確保することになったのである。
(サッチャー『サッチャー回顧録[上]』、日本経済新聞社、61〜63頁)
第七章 フォークランド戦争――艦隊派遣
第1週目
(サッチャー曰く、)
その土曜日の下院における討議も、もう一つ強烈な思い出がある。
私が論議の口火を切った。
それは私が直面したなかでもっとも難しい場面だった。
下院はイギリスの領土が侵略され、占領されたことに当然の怒りを感じていた。
そして多くの議員は、政府が事件を予見し、未然に防ぐのに失敗したことを口々に非難した。
私の最初の役目は、準備不足という非難に対して政府を弁護することだった。
もっと難しかったのは、2番目の課題だった。
すなわち、われわれがアルゼンチンの侵略に対しては力強く、効果的に応酬するつもりであることを議員たちに信じさせる(=確信させる)ことだった。
私は何が起こったかを説明し、われわれが何をしようとしているかを以下のように、はっきり述べた。
私は下院に対し、フォークランド諸島とその属領は依然としてイギリスの領土であると断固として告げます。 いかなる侵略も侵攻も、この歴然とした事実を変えることはできません。 フォークランド諸島を占領から解放し、できるだけ早くイギリスの統治に復帰させるのが政府の目標であります。 フォークランド諸島の住民は、イギリスの人々と同じです。 彼らの数は多くありませんが、彼らには平和に暮らし、自分たちの生き方を選択し、何に忠誠を誓うかを自分で決める権利があります。 彼らの生き方とはイギリス流の生き方です。 彼らが忠誠を誓うのは王室です。 この権利を守るためにできる限りのことをするのが、イギリス国民と女王陛下の政府の願いであります。 それがわれわれの希望であり、われわれの務めであり、下院のすべてのメンバーの決意であると信じます。 |
(サッチャー『サッチャー回顧録[上]』、日本経済新聞社、231〜232頁)
(サッチャー曰く、)
4月14日水曜日には、フォークランドについて下院でさらに討議を続ける予定になっていた。
それは、私にとって、交渉におけるわれわれの立場を明確にし、下院がこの立場を一致して支持していることを外の世界に示す機会であった。
私は下院(すなわち、国際社会)に向かって次のように述べた。
これからの数日間に行なわれるいかなる交渉でも、われわれは次の原則に従うでありましょう。 われわれは、アルゼンチンがフォークランド諸島と属領から撤退することを主張し続けます。 われわれは、占領軍が島から去るまでは、国連憲章第51条で保障されている、自衛のために武力に訴える権利を行使できるよう、準備を整えておくでありましょう。 わが国の海軍機動部隊は目的地に向かって航行します。 われわれは、同機動部隊が必要とされるいかなる手段をもとり得るものと確信しています。 一方、同機動部隊の存在そのもの、そしてそれがフォークランド諸島に向かって進行中であることは、外交的な解決を目指すわれわれの努力を補強するものでもあります。 その解決は、フォークランド諸島の住民の意思を何よりも重視しなければならないという原則を保証するものでなければなりません。 彼らが、アルゼンチンによる侵略以前に享受していた統治の再開ではなく、別の道を選ぶと信じる理由はありません。 彼らは最近の経験によって、将来に関する見方が変わったかもしれません。 しかし、彼らが自らの意思を自由に表現するチャンスを与えられるまで、イギリス政府としては、彼らの考えが以前と変わったと想定することはありません。 |
フォークランド諸島の統治の将来について島民の考えが変わったかも知れないという、私の演説のくだりの裏には深刻な懸念があった。
島民の士気が低下し、多くの人が島を去る恐れがあったのだ。
(サッチャー『サッチャー回顧録[上]』、日本経済新聞社、251〜252頁)
(サッチャー曰く、)
戦争は終わった。
われわれは皆、同じ思いだった。
歓声がそれを示した。
正義が勝ったのである。
そしてその晩遅く眠りに就いた時、私は自分の肩から取り除かれた荷がどんなに重かったかを実感したのだった。
国全体としては、日々の記憶、不安、そして安堵の気持ちさえも薄れていくだろうが、わが国が成し遂げたことへの誇りは薄れないだろう。
しばらく経った7月3日土曜日、私はチェルテナムでの演説で、フォークランド精神が何を意味するかを表現しようと試みた。
私たちは退却する国であることをやめました。 それに代えて私たちは新しい自信を見出しました。 その自信は国内での経済の戦いのなかから生まれ、1万3千キロの彼方で試され、本物であることがわかりました。 そして今日、私たちはフォークランドにおける成功を喜び、わが機動部隊の男女が成し遂げたことに誇りを感じることができるのです。 しかし、私たちは、まもなく消えてしまう炎が最後に燃え上がるようなことを喜んでいるのではありません。 そうではありません。 イギリスを過去何世代にもわたって燃やし続け、再びかつてと同じように明るく燃え始めたあの精神に、もう一度火をつけたことを喜んでいるのです。 イギリスは、自らを南大西洋に再び見出しました。 そして、手にした勝利から後戻りすることはないでありましょう。 |
(サッチャー『サッチャー回顧録[上]』、日本経済新聞社、297〜298頁)
中距離核戦力(INF)
われわれは次の年の6月にイギリス国内の巡航ミサイルの配備地を発表した。
バークシャーのグラーナムコモンとケンブリッジャーのモスワースである。
この時からグリーナムは、ますます耳障りになっていく一方的(=西側限定の)軍縮論者の運動の焦点となった。
ソ連自体、アメとムチを交互に使い分けながら、ヨーロッパの世論を操作し続けた。
1981年2月4日、ファン・アフト氏にお返しの訪問をした際に、私はオランダのテレビ・イアンタビューで、オランダとドイツにおける巡航ミサイル配備への抵抗について聞かれ、次のように答えた。
私は時々思うのですが、〔巡航ミサイルに〕反対する人たちはそのエネルギーを使ってソ連にこういってほしいのです。 「いいですか、あなた方(→ソ連であり、ソ連を支持する反核運動家のこと。)にはSS20という最先端、最新型の戦略核兵器があり、あなた方はそれをヨーロッパ各国に向けています。あなた方はその数をおよそ1週間に1基以上の割合で増やしています。あなた方は本当に私たちが何もせずにいられると思っているのですか。あなた方の核兵器使用を抑制するための巡航ミサイルをヨーロッパに保有してほしくないのなら、あなた方の兵器を撤去しなさい。取り去るのです。あなた方が何をしているか私たちにわかるよう、査察に同意しなさい」 とね。 心配はわかります。 私とて核兵器は好きではありませんが、私は私の自由、私の子供たちの自由、そしてソ連の子供たちの自由を重んじているのです。 そして、そうし続ける決心なのです。 |
私は後で、このように率直に話すことがオランダでは珍しいということを知った。
(サッチャー『サッチャー回顧録[上]』、日本経済新聞社、307〜308頁)
(サッチャー曰く、)
・・・ボンでヘルムート・コール首相と会談した後、私はベルリンに飛び、ベルリンの壁とその向こうに広がる、武装したロシア兵の注視の中で犬がうろつく、灰色で寒々として荒廃した土地をはじめて見ることになった。
この訪問にはコール首相が同行した。
将来どのような問題が起こることになろうとも共産主義の害悪およびわれわれの同盟国アメリカへの態度については、私たちの考えは一致していた。
・・・その日10月29日金曜日の午後の演説で私はこう言った。
戦争の道具よりも強力で広く行き渡った力があります。 人を鎖で縛りつけても、その人の心を縛りつけることはできません。 人を奴隷にしても、その人の精神を征服することはできません。 戦後のあらゆる時代において、ソ連の指導者たちは、自らの冷酷なイデオロギーが生きながらえることができるのは、それが力によって維持されているからだということに気付かされて来ました。 しかし、人々の怒りと不満があまりに大きなものになり、力では抑えきれなくなる日が来ます。 そして建物にひびが入り、モルタルは崩れます。 ・・・ある日、壁の向こう側に自由が現われ始めるのです。 |
私の予言の正しさは、自分でもとても期待できなかったほど早く証明された。
(サッチャー『サッチャー回顧録[上]』、日本経済新聞社、329〜330頁)
第十章 左翼を武装解除する
(サッチャー曰く、)
ファーディ(→首相官邸の政策本部のチーフ)は、時として社会政策という表題のもとにまとめられてしまう事柄、つまり、教育、刑事裁判、住宅、家庭等のすべてに特に興味をもっていた。
1981年の都市暴動の後、私自身も一段と関心を向けていた問題である。
5月の終わりに、彼は、「社会の価値意識を回復すること」への取り組み方の概要を記した報告書を、私のために用意してくれた。
現在の政府は、責任を果たすことが自己を訓練する道であると主張して政権の座についた。 しかし、人生の初期の段階にある若者たちは、大人が公平に矛盾なく行使する権威を経験することによって(=公正で責任ある大人に教育されることによって)、彼ら自身がどのように責任を果たすべきかを学ぶのである。 人間は、どのように命令を与えるかを学ぶ前に、命令を受けることを学ばなければならない。 この服従と責任の相互関係が、自由な自治社会を形づくっているのである。 そして、この関係が崩壊したところに、イギリスがうまくやっていけなくなった様々な事柄の原因を見つけることができるのである。 もし、われわれがこの関係を再建することができれば、法と秩序の尊重、所有権の尊重、教師や両親への敬意もまた回復させることができるかもしれない。 しかし、再建そのものも二つの面で行なわなければならない。 つまり、一方では教師や両親の権威を回復しなければならず、また他方では、若者に責任を果たすことを経験させ、社会の役に立つ役割を与えなければならない。 |
(サッチャー『サッチャー回顧録[上]』、日本経済新聞社、348頁)
潮の流れが変わる
(サッチャー曰く、)
多くの人がそうだったと思うが、ストが行なわれている間、私はずっとその民主主義に対する脅威について。いろいろ考えてきた。
7月だったが、国会の休会に先立つ1922年委員会の会議で、「内なる敵」についてスピーチを行なったことがある。
ところが、それは強い反感を買った。
私は少数のマルクス主義者の活動家を念頭において話をしたつもりだったが、批判者はそれを曲解し、炭鉱労働者全般への批判だと非難した。
内なる敵の問題は、11月26日月曜日の夕方、保守主義の伝統的ふるさとであるカールトン・クラブで行なった講演でも取り上げた。
カールトン・クラブで講演を行なったのは、ハロルド・マクミランに次いで私が二人目だった。
マクミランは、最近上院で行った、いかにも彼らしい優雅な処女演説のなかで、炭鉱ストに対する政府の姿勢に、激しい批判を浴びせたばかりだった。
反民主主義の過激派のもたらす脅威を考える時、私の念頭にあったのはもちろんNUM(=全国鉱山労組)の指導者だけではなかった。
数週間前にブライトン・グランド・ホテルに爆弾を仕掛け、殺人も辞さないという姿勢を誇示したIRA(=アイルランド共和軍)のテロリストも忘れてはならなかった。
そこで私は次のような演説を行なった。
最近不思議な思想がはばをきかせています。 特定の目的をもったグループに大変都合のよい思想です。 すなわち、多数決で決められた結果を、おとなしく受け入れる必要はない、少数派は、採決の結果が気に入らなければ、遠慮せずに暴力、時には脅しという手段で訴えて自分の意を通せばよい、という考え方であります。 マルクス主義者は評決に破れると、常に相手側の「意識が間違っている」、彼らの見解は意味がない、と非難します。 ところが、自分たちはどうかというと、たいていは自己の利益だけを追求するグループのために、まやかしの知的な衣を与えているだけにすぎません。 ・・・民主主義が勝利を得たからには、国家の法をないがしろにするのは、決して英雄的行為ではありません。 少数派が、フェア・プレーの概念を――これは「法の遵守」という意のイギリス流表現ですが――辛抱強い多数者を威圧するための口実として使うようなことは、あってはなりません。 けれども、現在イギリス国民が直面しているのは、まさにこの危険なのであります。 一方には、同じイギリス国民のテロリストがいます。 しかも彼らはテロリストの国家から資金と武器の援助を受けています。 また、一方には、イギリスの社会制度のなかで活動している極左翼がいます。 彼らは労働組合の力と地方自治体の機関を悪用して、法を打破し、無視し、転覆しようと図っています。 |
(サッチャー『サッチャー回顧録[上]』、日本経済新聞社、457〜458頁)
第21章 慣習に勝る施策はなし
(サッチャー曰く、)
私はビクトリア時代の人たちに、多くの理由から親愛の情を抱いていた。
それは、当時の自発的団体や博愛団体の増大、偉大な建造物、都市への寄付金などの形で示された公共精神に敬意を表するというだけにとどまらない。
私は、“ビクトリア朝の価値観”、私独自の用語では“ビクトリア朝の美徳”を賞賛することに不安を感じたことはない。
なぜなら、これらの美徳は決してビクトリア時代だけのものではないからだ。
ビクトリア時代の人々はすでに、現在われわれが再発見している事柄について語っていたのだ。
それは、“援助に値する”貧困と“援助に値しない”貧困の区別である。
ともに救済してしかるべきである。
しかし、公費の支出が依存文化を強化するだけにならないためには、両者への援助はずいぶん違った種類のものでなければならない。
われわれの福祉国家で生じる問題は、ある程度は不可避的なものなのかもしれないが、本当に困難に陥り、そこから脱出するまでなにがしかの援助を必要とする場合と、単に勤労と自己改善への意思や習慣を失ってしまっている場合との峻別を忘れてしまい、両者に同じ“援助”を施してきたことにあるのだ。
援助の目的はただ単に人々に半端な人生を送ることを許すことにあるのではなく、自らの規律を回復させ、自尊心をも取り戻させることにあるのだ。
(サッチャー『サッチャー回顧録[下]』、日本経済新聞社、218〜219頁)
第二十五章 バベル急行
(サッチャー曰く、)
私は外務省の望み通りに演説を始めた。
何世紀もの間にイギリスがヨーロッパにどれほど貢献したか、そして7万人のイギリス兵をここに駐在させていることで私たちがどれほどいまだに貢献しているかを主張した。
しかし、ヨーロッパとは何であろうか?
私は続けて、ECの主張に反し、ECはヨーロッパの独自性の唯一の表現方法ではないと聴衆に念を押した。
「私たちは常に、ワルシャワ、プラハ、そしてブタペストを偉大なるヨーロッパ都市として眺めるでしょう」。
私は続けて、西ヨーロッパは東ヨーロッパの隣人たちの悲惨な体験と、それに対する彼らの原則を曲げない断固とした対応から学ぶべきだと主張した。
ソ連のような中央からすべてを支配しようとしたような国が、成功とは権力や決定権を中央から分散することにかかっていることを学んでいる時に、その逆方向に進むことを望んでいるような人がECのなかにいることは、皮肉です。 私たちはイギリスで、国家による(民間、個人などへの)介入を撃退することに成功しましたが、ブリュッセルから新しい支配力を行使する新しいヨーロッパ超国家によって、それを全ヨーロッパレベルで再び押し付けられるとは思っていませんでした。 |
そのうえ、国民国家が主権や可能な限りの権力を維持することには経済以外の強い理由があった。
こうした国々は民主国家として機能していただけではなかった。
それは、広いがまだ理論的な概念にすぎないヨーロッパ国家というもののために踏みにじられたり抑え込まれてしまうのは愚かしく、どうすることもできない政治的現実であったのである。
私は次のように指摘した。
独立した国家間の自発的および積極的な協力こそが、成功するECをつくり上げる最善の方法です。 ・・・各国が独自の慣習、伝統、そして個性をもち、フランスらしいフランス、スペインらしいスペイン、イギリスらしいイギリスであるからこそ、ヨーロッパはより強くなるのです。 ヨーロッパの個性をモンタージュ写真のようなものに当てはめようとするのは愚かなことです。 |
私は、将来のための指針も説いた。
諸問題には実際的に取り組まなければならない。
CAP(=共通農業政策)にはまだ、取り組むべきことがたくさんあった。
われわれは、規制を最小限にしたヨーロッパ単一市場、企業家精神に富むヨーロッパを実現しなければならない。
ヨーロッパは保護主義的であってはならない。
そしてそれはGATTに対する姿勢に反映されなくてはならない。
最後に私は、NATOの重要性を強調し、その代わりとしての西欧同盟の〔仏独イニシアティブの結果による〕いかなる発展にも警告を発した。
私は、「反ヨーロッパ的」とは程遠い高い調子で演説を終えた。
ヨーロッパを、お互いをよりよく理解し合い、尊重し合い、ともに働き、しかしながらヨーロッパ共通の努力と同じように、それぞれの国家的な個性を大切にする国々の家族のようなものにしようではありませんか。 より広い世界で十分な役割を果たし、内ではなく外に向け、私たちのもっとも崇高な遺産であり最大の力である――大西洋両岸のヨーロッパ――大西洋共同体を保持する(→米国外し/敵視のヨーロッパ超国家ではない)ヨーロッパにしましょう。 |
(サッチャー『サッチャー回顧録[下]』、日本経済新聞社、355〜356頁)
(サッチャー曰く、)
フランス革命は、政治理念の歴史において数少ない真の分岐点の一つである。
これは今では、全部でないにせよほとんどのフランス人にとって、フランス国家の基礎であると認識されており、もっとも保守的なフランス人さえも「ラ・マルセイエーズ」を喜んで歌っているようである。
フランス革命はフランス陸軍によるヨーロッパの破壊につながったことから、ほかのヨーロッパ人には複雑な心境で受け止められているが、結果的には国民国家の成立につながった動きの刺激剤となった。
保守主義の父であり革命をはじめて批判した偉大な洞察力の持ち主、エドマンド・バークをイデオロギーの師として仰ぐイギリスの保守派の私には、1789年の出来事(=フランス革命)は政治における永久の幻想を意味する。
フランス革命は、偶然ではなく弱さや不正を通して追放や大量殺人や戦争に堕落した、自惚れたインテリたち(→ルソーやヴォルテールやエルベシウスなどの啓蒙思想家)によって編み出された抽象的な概念を旗印として、伝統的な体制――多くの欠点があったことは確かである――を倒そうとしたユートピア的な幻想であった。
多くの意味でそれは、より悲惨であった1917年のボルシェビキ革命に先鞭をつけたのである。
しかしイギリスの自由の伝統は、何世紀もかけて発展した。
そのもっとも顕著な特徴は、1688年の名誉革命に代表されるように、継続(世襲/相続)、法に対する敬意(=法の支配、法の遵守)そしてバランス感覚(=保守と改善の並立原理など)である。
(サッチャー『サッチャー回顧録[下]』、日本経済新聞社、364〜365頁)
(英国の偉大なる宰相、MARGARET・THATCHERのバーク保守主義---END)